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狩野 恵輔(かのう けいすけ、1982年12月17日 - )は阪神タイガースに所属するプロ野球選手(捕手)。
目次 [非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り前 1.2 プロ入り後 2 人物 3 詳細情報 3.1 年度別打撃成績 3.2 年度別守備成績 3.3 背番号 3.4 個人記録 4 脚注 5 関連項目 経歴 [編集] プロ入り前 [編集] 群馬県勢多郡赤城村出身。中学校では投手だったが、2年秋に主将となると同時に捕手に転向した[1]。前橋工業高校では3年夏の群馬大会で大会新記録となる4本塁打を放ち、決勝で一場靖弘を擁する桐生第一高校と対戦するも最後の打者となり敗北。しかし、打撃センスを買われて2000年のドラフトで阪神から3位指名を受け入団。 プロ入り後 [編集] 入団前から身体能力の高い選手と言われており、パンチ力を秘めた打撃や捕手にしては速い足などを生かすために2002年は外野手にも挑戦していたが、翌2003年から再び捕手に専念。2004年シーズン終盤に一軍初出場。同年12月に結婚した。 2006年にはウエスタン・リーグで規定打席不足ながら、不足分の打席を全て凡退として計算してもリーグ最高打率なら首位打者に認定されるルールにより、チームでは1986年の古川弘幸以来2人目となる打率.348で首位打者を獲得した。同年オフの第2子誕生を契機に「これ以上二軍でくすぶって家族に迷惑をかけられない」と一念発起。金本知憲が通う広島のジムで金本と共にトレーニングを積み、正捕手である矢野燿大の自主トレに参加して教えを乞うなど意欲を見せた。背番号も「63」から「もう後がない」という意味で「99」に変更。 2007年は浅井良や野口寿浩を押しのけて初の開幕一軍を勝ち取り、4月20日の読売ジャイアンツ戦で延長12回に代打出場し、プロ初安打・初打点となるサヨナラ安打を放った。翌日にはスタメン出場し、プロ初本塁打を記録した。同年の阪神は右打者の不振が深刻で、この本塁打がチーム19試合目で右打ちの野手が放った初本塁打だった[2]。そうしたチーム事情に加え、初安打の後1か月近く打撃好調でしばらくは代打の切り札的な存在になり、打撃不振だった正捕手の矢野に代わってスタメン出場も多かった。その後は相手の研究もあってジリジリと打率を下げたが、主に代打や代走要員としてほぼシーズン通して一軍にいた。 2008年は前年結果を出したこともあり次期正捕手として期待されていたが、3月に右ひじの手術を受けた影響で出遅れ一軍出場は12試合に留まった。 2009年は矢野が故障で開幕に間に合わなかったこともあり、初めて開幕スタメン出場をした。その後も実質的に正捕手として投手陣をリードし、打撃でも勝負強さを発揮した。矢野が復帰した後も安藤優也や下柳剛以外の先発投手が登板した試合で捕手を務め、自己最多の127試合に出場し、二桁盗塁、リーグトップの敬遠数を記録した。同年オフに城島健司が加入したことから、出場機会を増やすため外野手へのコンバート話も一時持ち上がったが[3]、最終的には捕手のままということになった[4]。 2010年は一軍で開幕を迎えたものの、城島が正捕手となったために当初は出場機会に恵まれなかった。しかし打撃と走力を買った首脳陣の判断で4月8日に調整のため二軍降格し、ウエスタン・リーグの試合で実戦感覚を養いつつ外野の守備にも就いた。連続フルイニング出場を続けていた金本が故障でスタメンを外れるようになったこともあり、4月20日に一軍再昇格すると同日の広島東洋カープ戦で左翼手として先発出場し、シーズン初本塁打を放った。しかしながらその後はなかなか出場機会を得られずに32試合の出場に終わる。 人物 [編集] 特技は小さい頃から習っていたピアノ。鍵盤を叩くことで指先の感覚が鋭くなり、キャッチングにも活かせているという。 高校時代はパンチ力のある打撃と大人びた風貌から「上州の掛布」と呼ばれた。 PR |
城島 健司(じょうじま けんじ、1976年6月8日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(捕手)。長崎県佐世保市出身。
長打力と、座ったまま投げて盗塁を刺す強肩が武器。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 ダイエー・ソフトバンク時代 1.2 マリナーズ時代 1.3 日本復帰・阪神時代 2 詳細情報 2.1 年度別打撃成績 2.2 守備成績【NPB】 2.3 守備成績【MLB】 2.4 タイトル・表彰 2.5 個人記録 3 プレースタイル 3.1 打撃 4 人物 5 人間関係 6 家族 7 CM出演 8 城島を題材とした作品 9 関連項目 10 脚注 11 外部リンク 経歴 [編集] 別府大学付属高等学校時代は1年の時から4番を打ち、高校通算70本塁打を記録。 3年次の1994年秋、ドラフト会議前に最初に城島をリストアップしたのは広島東洋カープだったが、本人はドラフト前からプロ入り拒否を表明し駒澤大学への推薦入学が決定しており、スカウト陣が二度目に会いに行ったときにはもう会えなくなっていた。しかしドラフトでは、福岡ダイエーホークスが1位で強行指名。これには駒澤大学の当時の太田監督も怒りを隠せず、「今後、ダイエーには選手を入団させない」という問題にまで発展した(後に和解)。その後ダイエー監督の王貞治の説得で入団を承諾し、「ダイエー最初の根本マジック発動」とも言われた。 ダイエー・ソフトバンク時代 [編集] 入団当初は辛口のバッテリーコーチ・達川光男から「こんな下手なキャッチャー見たことない」と言われながら打撃には非凡なところを見せ、19歳直前の1995年5月31日の対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(福岡ドーム)で代打としてプロ初出場。7月9日の対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリン)ではエリック・ヒルマンからプロ初安打(同時にプロ初打点)。7月14日のオリックス17回戦(福岡ドーム)ではプロ初スタメン(8番捕手)を果たした。 2年目の1996年は開幕から二軍で英才教育を受け、8月24日にウエスタン・リーグ新記録となる25本塁打を放ち、9月3日に一軍昇格。翌年以降をにらみ、残り試合をほぼ全試合先発起用された。9月10日の対近鉄バファローズ21回戦(福岡ドーム)では久保康生からプロ初本塁打を記録。オフには同僚の吉武真太郎らとともにハワイ・ウインターリーグに派遣された。 1997年開幕より一軍のレギュラー捕手に定着。同年オールスターファン投票では、戦後生まれでは最年少となる21歳45日で捕手部門1位選出。この年打率.308(プロ野球歴代捕手史上最年少3割)、15本塁打、68打点。工藤公康・武田一浩らベテラン投手、バッテリーコーチ・若菜嘉晴の公私共の支え、ロッテから移籍してきた先輩捕手・田村藤夫の教えもあり以後不動の正捕手となる。 1999年には初の全試合出場を果たし、チーム唯一の打率3割をマークするなど、球団初のリーグ優勝・日本一に大きく貢献。リーグ優勝が決定した瞬間、号泣した。 2000年は右手の骨折により84試合の出場にとどまったが、チームはリーグ2連覇し日本シリーズに出場。シリーズタイ記録となる4本塁打を放つなど活躍した。同シリーズ敢闘賞を受賞。 2001年は打率は低かったが、長打力に磨きがかかり31本塁打を記録。この年、小久保裕紀が44本塁打、松中信彦が36本塁打、井口資仁が30本塁打し、パ・リーグ初の30本カルテットを形成。また、日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初であった。さらに、4月13日のオリックス3回戦の9回に史上15人目で17度目の1イニング2本塁打を記録[1]。この試合は6回にも本塁打を打っており、グリーンスタジアム神戸での1試合3本塁打は史上4人目である。同年、城島健司ベースボール記念館が故郷の長崎県佐世保市にオープンした。 2002年には守備についている際に打球を鎖骨に受け骨折。ベストナインを逃すが、ゴールデングラブ賞は受賞した。このとき城島の故障の穴埋めのため、日本ハムファイターズから田口昌徳が入団した。また、福岡ローカルのホークス応援番組では、城島がゴルフ好きであることから、骨折した鎖骨を固定していたチタンボルトをパターの一部にして城島にプレゼントした。 2003年には自ら「スーパーキャッチャー」のキャッチフレーズを掲げ、野村克也以来史上2人目となる捕手としての全試合全イニング出場を宣言し、見事に達成した。7月27日のオリックス・ブルーウェーブ戦では1試合6安打を放ち、仰木彬(西鉄ライオンズ)と並ぶリーグタイ記録をマークするなど、打っては打率.330、34本塁打、119打点と打撃3部門全てで自己最高の数字を記録。松中、井口、ペドロ・バルデスとともにプロ野球史上初の100打点カルテットを形成したダイハード打線の5番打者としてチームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献した。また捕手としても斉藤和巳ら若手投手陣を引っ張り、MVPに選出された。日本シリーズでは後に移籍することになる阪神タイガースと対戦。2000年の日本シリーズに続き、長嶋茂雄以来史上2人目となるシリーズ2度目の4本塁打を放つなど大舞台での強さを見せ、チームの日本一に大きく貢献した。 2004年はアテネオリンピック野球日本代表に選ばれ、4番打者、正捕手として活躍。チームは銅メダルを獲得した。ペナントレースではチームがリーグ1位であったにもかかわらず、プレーオフで敗れリーグ連覇を逃した。個人としては、捕手シーズン打率パ・リーグ新記録となる.338をマーク。また6月1日に通算1000本安打を達成しており、出場939試合目での達成は、捕手では1952年の土井垣武(毎日)に並ぶ最速記録となった。 2005年6月4日、通算200本塁打達成。7月中旬に右肩痛を訴え離脱。その後8月28日にスタメン復帰するも、9月22日の千葉ロッテマリーンズ戦で自打球を左スネに当て全治2か月の骨折を負い、残りの試合には出場できなかった。城島に代わり捕手を務めた的場直樹がプレーオフ敗退にベンチで泣き崩れた際、松葉杖をつきながら的場のもとへ歩み寄り、活躍を称え懸命に慰めていた。この年、怪我に苦しみながらも通算4,000打数をクリア。通算打率.299は捕手としてプロ野球歴代1位。 2005年オフ、FA宣言しメジャーリーグ・シアトル・マリナーズと3年契約。捕手としては日本人選手史上初のメジャーリーガーとなった。 マリナーズ時代 [編集] スイングする城島(2006年) 打席に立つ城島(2006年) (この節の日付はすべて現地時間) 2006年4月3日の開幕戦対ロサンゼルス・エンゼルス戦(セーフコ・フィールド)に7番捕手として初出場。バートロ・コロンから第2打席にメジャー移籍後初安打を初本塁打で記録(同時に初打点)。デビュー戦本塁打は日本人史上2人目となった。続く4月4日の対エンゼルス戦では、日本人史上初となる開幕から2試合連続本塁打を記録した。 2006年9月19日の対レンジャーズ戦(アメリクエスト・フィールド・イン・アーリントン)では、日本人メジャーリーガーの1年目としては松井秀喜を上回り最多となる17号本塁打。9月25日の対ホワイトソックス戦(USセルラー・フィールド)では、マリナーズの捕手としては最多記録と並ぶ18号本塁打。10月1日のシーズン最終戦となるレンジャーズ戦(セーフコ・フィールド)では最終打席でバック・ロジャース(エンゼルス)の持っていたア・リーグ新人捕手シーズン最多安打記録146(1962年)を44年ぶりに更新する安打を放った。最終的に打率.291、18本塁打、76打点を残したが、18本塁打は日本人メジャーリーガー1年目の最多、打率.291は日本人メジャーリーガーの1年目としてはイチローに次いで2位だった。 言葉の壁や戦略の違いなどで最も難しいといわれていた捕手というポジションで、見事にレギュラーの座を獲得。さらには、ルーキーで捕手という激務をこなしながらの打撃成績を評価され、シーズン終盤は3番を務めることもあった。新人野手としてはア・リーグ2部門(本塁打と打点)でトップの成績だったが、新人王争いの投票では投手3人に続く4位に終わった。 2007年は135試合に出場し、打率.287、14本塁打、61打点。守備率(863守備機会で.998)と盗塁阻止率 (.465) ではメジャー全体トップを記録。 2007 This Year in Baseball Award のDefensive Player部門に捕手で唯一ノミネートされた。7月3日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦で、右手甲に打球を受け負傷したが、この時は幸運にも、2000年に骨折した際埋め込まれていた金属プレートのおかげで、再度の骨折を回避できた[2]。 2008年4月25日、マリナーズと3年2,400万ドルで契約を延長[3]。しかし城島の打撃は不振を極め、首脳陣や投手陣が成長株の捕手ジェフ・クレメントに信頼を置きはじめたこともあり、ファーストへのコンバートさえ囁かれるシーズンとなった。そして同8月10日、正式にスタメン捕手の座を剥奪された事が報道された。ただし9月はクレメントが膝の手術でシーズンを終えたため、再びレギュラーとして起用されている。最終的に112試合に出場し、自己ワーストとなる打率.227、7本塁打、39打点。翌年から3年総額26億円の高額な契約を結んでいたこともあり、ESPNの選ぶア・リーグの"Least Valuable Player"(MVPの逆。「最も高くついた選手」)に選出されてしまった[4]。 2009年、第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出。巧みなリードで投手陣を引っ張るなど侍ジャパンの攻守の要として活躍。決勝では4番を打つなど全試合にスタメン出場し、9試合で30打数10安打(打率.333)1本塁打4打点1盗塁4得点で日本のWBC2連覇に貢献した。 2009年のシーズンは正捕手としてスタートしたが、4月16日に右太股裏の肉離れで15日間の故障者リスト入り、5月26日に左足親指骨折で2度目の故障者リスト入りするなど序盤は怪我に見舞われる。また城島不在の間に新人のロブ・ジョンソンが投手陣の信頼を集め、城島の復帰後もフェリックス・ヘルナンデス、ジャロッド・ウォッシュバーン、エリック・ベダードの先発三本柱は城島とのバッテリーを拒否して[5]ジョンソンとコンビを組んだため、出場機会が激減した。後にウォッシュバーンは移籍、ベダードは怪我で離脱したが、三本柱の先発した65試合のうち城島がマスクを被ったのは序盤の10試合に終わった。 打撃はどん底だった2008年よりやや持ち直し、71試合の出場ながら打率.247、9本塁打、22打点。本塁打率ではメジャーに来てから自己最高の数字を残したが、RC27は4.03という低調な数字に終わった。無走者時の打率.290に対し、走者を置いた状況下では打率.188(得点圏打率.184)と大きく数字を落としている。夏場には、ESPNが発表した「獲得希望のなさそうな選手」ランキングで14位に入り、「2011年までの年俸総額1,864万ドルが残り、低い出塁率と非力な33歳の捕手をどこが欲しがるか」と指摘された[6]。 守備面ではCERA(捕手別防御率)が4.86となり、ロブ・ジョンソンの3.23を大きく上回ってしまった[7]。エースのヘルナンデスは城島とバッテリーを組んだ試合では1勝3敗、防御率7.22, QS率20%(1/5)だったが、城島以外の捕手と組んだ試合では18勝2敗、防御率1.81, QS率96.6% (28/29) という好成績を残した[8]。ただし、ヘルナンデスは毎年5月に不調に陥る傾向があり[1]、城島が復帰した5月の数試合が、ちょうどその時期と重なっていることも考慮に入れる必要がある。城島が退団した後の2010年もロブ・ジョンソンと組んだが、その傾向は変化がなく、月別防御率はむしろ悪化している。 強肩は相変わらずであり、規定試合数に届かなかったものの盗塁阻止率は.537で自己最高を記録。メジャー通算の盗塁阻止率も.400と高率を誇った。 本拠地セーフコフィールドで打席に入る際に流れる曲は、ジミ・ヘンドリックスの「Hey joe」だった。マリナーズ入団の際、城島はTV番組『笑点』のテーマを登場曲の候補の1つに上げていたことがある[2]。 日本復帰・阪神時代 [編集] 2009年10月19日、マリナーズとの残り2年間の契約を破棄し、日本球界に復帰する意向であることが発表された[9]。これに即座に反応した阪神タイガースが獲得に動き、やや遅れて古巣のソフトバンクも獲得の意向を示したが、同27日、阪神との2度目の交渉で入団の意思を表明した。 この時阪神が城島の獲得に至った経緯として、前年までの正捕手矢野燿大がこの年故障で長く欠場し、代わって正捕手格となった狩野恵輔も送球面などの不安を抱えていたこと、また右打ちの強打者がチームに少なかったことがあり、城島はいずれの補強ポイントにも合致していた[10]。 城島自身はこれ以前にFBSの『夢空間スポーツ』のコーナー内のインタビューにて「(選手として)バリバリの状態で福岡に戻りたい」、「今の自分があるのはホークスのおかげであり、ユニフォームを脱ぐ時は福岡でホークスのユニフォームを脱ぎたい」と語っており、ソフトバンク球団側も背番号「2」を欠番にしており、城島のマリナーズ退団情報を9月中旬に掴んでいた[11]が、一度は獲得を見送っている。その要因としてこの年に26本塁打を放ち飛躍した田上秀則の存在や城島自身の年俸の高騰などが背後にあった[12]。 2009年11月13日、正式に阪神入団発表。4年契約、年俸4億+出来高払いで、背番号は2である。 さらにカレンダーにも登場している。 公式戦デビューの試合(3月26日・横浜ベイスターズ戦。京セラドーム大阪)で決勝タイムリーヒットを放ち、「長崎県佐世保から来ました城島です」とヒーローインタビューでスピーチした。その翌日・3月27日の同球場・同カードにおいては延長11回にサヨナラホームランを打ってヘッドスライディングをしてホームインしてみせた。 10月5日の東京ヤクルトスワローズ戦ではシーズン165安打目を放ち、1997年に古田敦也が記録した164安打を抜き、捕手のセ・リーグ最多安打記録を更新した。これにより、城島はセ・パ両リーグの捕手最多安打記録保持者となった。 |
久保田 智之(くぼた ともゆき、1981年1月30日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 プロ入り前 1.2 プロ入り後 2 プレースタイル 3 人物 4 詳細情報 4.1 年度別投手成績 4.2 背番号 4.3 タイトル・表彰 4.4 個人記録 5 登場曲 6 脚注 7 関連項目 8 外部リンク 来歴 [編集] プロ入り前 [編集] 埼玉県比企郡吉見町出身。小学3年生から野球を始め小学5年生秋の新チームからレギュラーになり、主に5番キャッチャーだった。 その後、自分でも活躍できるだろうと進学した滑川高校でも捕手を務めていたが、監督に投手をしたいと申し出ると「エースと違う投げ方をするなら試合で使ってやる」と言われ、監督が練習中にトルネード投法で投げていたのを真似て投手も兼任するようになった。この際に野茂英雄を参考にしたことは一切なかったという[1]。 高校3年時の1998年に正捕手・4番打者・2番手投手として第80回全国高等学校野球選手権大会に同校初となる出場を果たす。1回戦の対境高校戦では7回にマスク・チェストプロテクター・レガースを外してリリーフ登板し、背番号2を打者に見せる投法を見せ、翌日のスポーツ新聞では「滑川の大魔神」「トルネード久保田」という見出しがつけられた[1]。3回戦で後にプロでチームメイトとなる久保康友を擁する関大一高に敗れたが、計3試合6イニングを投げて無失点に抑えた。 高校卒業後は投手として誘われた[1]関甲新学生野球連盟所属の常磐大学に進学。本格的に投手転向して2年時から主戦となるが、地肩の強さに頼った投げ方で連投できなかった[2]。3年時に東海大学との練習試合で153km/hを記録するなどプロから注目されるようになり、2002年春には読売ジャイアンツのキャンプに招待選手として参加。大学では同期の小野寺力と共に活躍したがリーグ戦の優勝はなく、全国・国際大会にも縁がなかった。同年秋のドラフトで阪神タイガースから5巡目で指名され入団。 プロ入り後 [編集] 入団直後の新人合同自主トレに体重超過で臨み、いきなり80万円の罰金を科されるも「活躍して倍以上にして取り返してやる」と発言し話題となる。 2003年5月11日にプロ初登板。5月24日の対ヤクルトスワローズ戦で、福原忍の球団最速記録を塗り替える156 km/hを記録した。6月1日の対巨人戦でプロ初先発し、先発投手と中継ぎを兼任したが、チームがリーグ優勝を決める直前に故障して日本シリーズでは登板機会がなかった。 2004年開幕当初は先発として起用されたが打ち込まれた上に再度故障。復帰後は中継ぎで好投していたが、ジェフ・ウィリアムス、安藤優也のアテネオリンピック代表招集やジェロッド・リガンの故障離脱に伴いクローザーに転向する。 2005年はウィリアムス、藤川球児とともにJFKと呼ばれるリリーフトリオを形成する。チームが優勝を決めた9月29日の対巨人戦では胴上げ投手となった。また、同年は自身の球団最速記録を更新する157 km/hを記録した。しかし、リリーフ投手としてはやや安定感に欠け、走者を出してはギリギリのところで抑える場面が多かった。 2006年はWBC直前に負傷した黒田博樹の代替選手として日本代表に選ばれ、黒田が着ける予定だった背番号15で登録されたが登板機会はなかった。5月4日の対巨人戦では同点の延長10回表から登板するとその裏の攻撃で四球を選んで出塁し、矢野輝弘の適時打で本人曰く「人生初」で、なおかつクローザーとしては珍しいサヨナラのホームを踏んだ。阪神では引き続きクローザーを任されたものの序盤から安定感に欠ける登板が続き、6月21日にベビーカーから落ちそうになった娘をかばって右手の甲を地面に強く打ちつけて骨折し戦線離脱。この行動はファンのみならず藤川など同僚からも「父親として当然の行動」と評されたが、球団シニアディレクターの星野仙一には「自分の商売道具である手を大事にしていない」と批判された。シーズン後半には復帰したものの打ち込まれる場面が目立ち、長期離脱があったにもかかわらず7敗した。 2007年は藤川がクローザーを務め、自身はセットアッパーとして起用された。先発投手陣の不振もあってシーズン通してフル回転し、90試合に登板してシーズン最多登板数の日本記録を更新。防御率1.75、それぞれ日本タイ記録のシーズン46ホールド、日本新記録の55ホールドポイントを樹立[3]。下柳剛の10勝に次ぐチーム2位の9勝を挙げ、リリーフ投手ながらチーム2位、リーグ22位の投球回数を投げ、リーグ15位の奪三振数を記録するなどプロ入り後最高の成績を残し、初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得。オールスターにも監督推薦で初出場し、7月20日の第1戦に登板して1回を三者凡退に抑え、勝利投手となった。 2008年は前年の登板過多や同年も延長を含め1試合で4回を投げたりした影響からか防御率が倍近く悪化した。特にシーズン終盤は不安定な投球が度重なり、スコット・アッチソンがセットアッパーとなった。オールスターにはファン投票で選出され2度目の出場。第1戦の9回裏に登板したが、山崎武司にサヨナラ安打を打たれるなど4安打2失点で敗戦投手となった。同年も12球団最多の69試合85回1/3に登板して37ホールドポイントを挙げ、2年連続の最優秀中継ぎ投手となったものの、12月22日の契約更改では推定1,000万円のダウンとなった[4]。 2009年は本人の希望と真弓明信新監督の意向もあり先発に転向する予定だったが、キャンプ中に肩の故障で離脱。7月16日の対中日ドラゴンズ戦で5年ぶりの先発となる一軍復帰登板も3回途中4失点で降板し、翌7月17日付で二軍に降格した後は一軍で登板することなくシーズンを終えた。 2010年は再び中継ぎに戻り藤川に繋ぐ役目を担った。随所で不安定な投球となることもあったが、後半戦は安定した活躍を見せた。 プレースタイル [編集] 高校時代よりも捻りが少ないトルネード気味のオーバースローから最速157 km/h, 常時150 km/h前後の速球、好調時には140 km/hを超えることもある縦横2種類のスライダー、フォークボールを軸に、カーブ、チェンジアップも交える。 マウンド上では基本的にポーカーフェイスを保っており、ロングリリーフで連投する場面も多々見られるタフネスさも特徴。 人物 [編集] この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2008年12月に貼り付けられました。 大学時に右投両打に変えたが、死球などで利き腕に当たる危険性を考えプロ入り後に右投右打に戻した。 反骨心が強く、高校最後の夏だけでなく日本シリーズも「自分が出ていないのに見るなんて時間の無駄」と、一切観戦しなかった。あまりの反骨心の強さに、雑誌では「反逆児」などと書かれたこともあった。また松坂大輔と同世代の選手を松坂世代と称することについて「松坂だけで成り立っているみたいじゃないですか。同い年ってだけで繋がりはないし」と発言している。 ふてぶてしい面構えに、ピンチでも動揺しない強心臓の持ち主ということでクローザーに抜擢されたが、本人は「緊張しないわけがないですよ。なのに打者から見たら弱気に見えないらしい」と語った。また、2006年6月12日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で岡田彰布監督が久保田の不振と疲労を考慮して前日好投した藤川を抑えとして登板させると、翌日にはコーチを伴って監督室へ赴き真意を問い質した。一方で「日本シリーズでは先発したい」と語るなど、普段から先発志望であることを公言している。 2007年オフにシーズン90試合登板を記念して母校の常磐大学から特別表彰を受けた際、プロ入り時に大学の卒業単位を満たしておらず自主退学していたことを明かした。大学側は卒業要件に関する規定を一部改訂、久保田を卒業生に準じる「名誉修了生」として扱うことにした。正式な卒業ではないため大卒(学士)の資格は得ていない。 |
放映リスト [編集]
※各怪獣の詳細はウルトラセブンの登場怪獣を参照。 ※放送日、放送順は本放送資料、および公式資料に準拠[18]。 放送日 話数 サブタイトル 登場怪獣・宇宙人 侵略に用いた装置 スタッフ 1967年10月1日 1 姿なき挑戦者 宇宙ハンター クール星人 カプセル怪獣ウインダム 見えない宇宙船 監督-円谷一 特技監督-高野宏一 脚本-金城哲夫 1967年10月8日 2 緑の恐怖 生物X ワイアール星人 電子頭脳(チルソナイト808に封印) 監督-野長瀬三摩地 特技監督-高野宏一 脚本-金城哲夫 1967年10月15日 3 湖のひみつ 宇宙怪獣エレキング 変身怪人ピット星人 カプセル怪獣ミクラス ピット星人の円盤 監督-野長瀬三摩地 特技監督-高野宏一 脚本-金城哲夫 1967年10月22日 4 マックス号応答せよ 反重力宇宙人ゴドラ星人 時限爆弾 監督-満田かずほ 特技監督-有川貞昌 脚本-山田正弘、金城哲夫 1967年10月29日 5 消された時間 宇宙蝦人間ビラ星人(放送当時はヴィラ星人) ユシマダイオード ビラ星人の宇宙船団 監督-円谷一 特技監督-高野宏一 脚本-菅野昭彦 1967年11月5日 6 ダーク・ゾーン 放浪宇宙人ペガッサ星人 宇宙空間都市ペガッサ 監督-満田かずほ 特技監督-有川貞昌 脚本-若槻文三 1967年11月12日 7 宇宙囚人303 火炎怪人キュラソ星人 ひとり乗りのスペースポニー 監督-鈴木俊継 特技監督-的場徹 脚本-金城哲夫 1967年11月19日 8 狙われた街 幻覚宇宙人メトロン星人 宇宙ゲシの実(によく似たもの) メトロン星人の円盤 監督-実相寺昭雄 特技監督-大木淳 脚本-金城哲夫 1967年11月26日 9 アンドロイド0指令 頭脳星人チブル星人 アンドロイド少女ゼロワン (催眠周波を受信する)ワッペン おもちゃ 監督-満田かずほ 特技監督-的場徹 脚本-上原正三 1967年12月3日 10 怪しい隣人 異次元宇宙人イカルス星人 (次元を移動する)コントロールマシン イカルス星人の円盤 監督-鈴木俊継 特技監督-的場徹 脚本-若槻文三 1967年12月10日 11 魔の山へ飛べ 宇宙竜ナース 宇宙野人ワイルド星人 命を吸い取るカメラ (生命体を定着するフィルム) 監督-満田かずほ 特技監督-的場徹 脚本-金城哲夫 1967年12月17日 12 遊星より愛をこめて (欠番。詳細は「スペル星人」の項を参照) 吸血宇宙人スペル星人 血液結晶器(腕時計型) 監督-実相寺昭雄 特技監督-大木淳 脚本-佐々木守 1967年12月24日 13 V3から来た男 宇宙鳥人アイロス星人 アイロス星人の円盤 監督-鈴木俊継 特技監督-高野宏一 脚本-市川森一 1968年1月7日 14 ウルトラ警備隊西へ(前編) 宇宙ロボット キングジョー 策略星人ペダン星人 ペダン星人の宇宙船 宇宙戦闘機 監督-満田かずほ 特技監督-高野宏一 脚本-金城哲夫 1968年1月14日 15 ウルトラ警備隊西へ(後編) 1968年1月21日 16 闇に光る目 岩石宇宙人アンノン さくら9号(宇宙局のアンノン星調査宇宙船) 監督-鈴木俊継 特技監督-高野宏一 脚本-藤川桂介 1968年1月28日 17 地底GO! GO! GO! 地底ロボット ユートム 宇宙人の侵略基地 監督-円谷一 特技監督-大木淳 脚本-上原正三 1968年2月4日 18 空間X脱出 宇宙巨大グモ グモンガ 音波怪人ベル星人 疑似空間 監督-円谷一 特技監督-大木淳 脚本-金城哲夫 1968年2月11日 19 プロジェクト・ブルー 宇宙帝王バド星人 地球を破滅させる爆弾 バド星人の円盤 監督-野長瀬三摩地 特技監督-的場徹 脚本-南川竜 1968年2月18日 20 地震源Xを倒せ 核怪獣ギラドラス 暗黒星人シャプレー星人 (ギラドラスによるウルトニウム採掘) 監督-野長瀬三摩地 特技監督-的場徹 脚本-若槻文三 1968年2月25日 21 海底基地を追え 軍艦ロボット アイアンロックス 宇宙海底人ミミー星人(声のみ) ミミー星人の円盤 強烈な爆弾ロボット 監督-鈴木俊継 特技監督-大木淳 脚本-赤井鬼介 1968年3月3日 22 人間牧場 宇宙怪人ブラコ星人 赤い胞子(ブラコ星人の食料) ブラコ星人の円盤 監督-鈴木俊継 特技監督-大木淳 脚本-山浦弘靖 1968年3月10日 23 明日を捜せ 猛毒怪獣ガブラ 宇宙ゲリラ シャドー星人 シャドー星人の円盤 監督-野長瀬三摩地 特技監督-的場徹 脚本-南川竜、上原正三 1968年3月17日 24 北へ還れ! オーロラ怪人カナン星人 カプセル怪獣ウインダム カナン星人の宇宙船 監督-満田かずほ 特技監督-高野宏一 脚本-市川森一 1968年3月24日 25 零下140度の対決 冷凍怪獣ガンダー ミニ宇宙人ポール星人 カプセル怪獣ミクラス (ガンダーによる基地冷凍) 監督-満田かずほ 特技監督-高野宏一 脚本-金城哲夫 1968年3月31日 26 超兵器R1号 再生怪獣ギエロン星獣 なし 監督-鈴木俊継 特技監督-的場徹 脚本-若槻文三 1968年4月7日 27 サイボーグ作戦 甲冑星人ボーグ星人 ボーグ星人の宇宙船 監督-鈴木俊継 特技監督-的場徹 脚本-藤川桂介 1968年4月14日 28 700キロを突っ走れ! 戦車怪獣 恐竜戦車 侵略宇宙人キル星人 人間爆弾(バイクに乗車) 時限爆弾、気球 動く要塞(恐竜戦車) 監督-満田かずほ 特技監督-高野宏一 脚本-上原正三 1968年4月21日 29 ひとりぼっちの地球人 宇宙スパイ プロテ星人 城南大学の科学観測衛星 プロテ星人の宇宙船、電送移動機 監督-満田かずほ 特技監督-高野宏一 脚本-市川森一 1968年4月28日 30 栄光は誰れのために プラスチック怪人プラチク星人 プラチク星人の宇宙船 監督-鈴木俊継 特技監督-的場徹 脚本-藤川桂介 1968年5月5日 31 悪魔の住む花 宇宙細菌ダリー ダリーの卵の殻(一見、美しい花弁) 監督-鈴木俊継 特技監督-的場徹 脚本-上原正三 1968年5月12日 32 散歩する惑星 メカニズム怪獣リッガー カプセル怪獣アギラ 怪電磁波を発する小惑星 監督-野長瀬三摩地 特技監督-高野宏一 脚本-山田正弘、上原正三 1968年5月19日 33 侵略する死者たち 蘇生怪人シャドウマン 宇宙ステーション、ミサイル セブン拘束具(円盤型、容器型) 監督-円谷一 特技監督-高野宏一 脚本-上原正三 1968年5月26日 34 蒸発都市 発泡怪獣ダンカン ビル群(居住区) 監督-円谷一 特技監督-高野宏一 脚本-金城哲夫 1968年6月2日 35 月世界の戦慄 月怪獣ペテロ 復讐怪人ザンパ星人 遠隔指示器 監督-鈴木俊継 特技監督-高野宏一 脚本-市川森一 1968年6月9日 36 必殺の0.1秒 催眠宇宙人ペガ星人 ペガ星人の円盤 監督-野長瀬三摩地 特技監督-高野宏一 脚本-山浦弘靖 1968年6月16日 37 盗まれたウルトラ・アイ マゼラン星人マヤ 恒星間弾道弾 リズムボックス型発信器 監督-鈴木俊継 特技監督-高野宏一 脚本-市川森一 1968年6月23日 38 勇気ある戦い ロボット怪獣クレージーゴン バンダ星人 バンダ星人の宇宙ステーション バンダ星人のロボット 監督-飯島敏宏 特技監督-高野宏一 脚本-佐々木守 1968年6月30日 39 セブン暗殺計画(前篇)[19] 豪力怪獣アロン 分身宇宙人ガッツ星人 カプセル怪獣ウインダム ガッツ星人の宇宙船 小型円盤(捕獲用) セブン拘束具(十字架型) 監督-飯島敏宏 特技監督-高野宏一 脚本-藤川桂介 1968年7月7日 40 セブン暗殺計画(後編) 分身宇宙人ガッツ星人 1968年7月14日 41 水中からの挑戦 カッパ怪獣テペト 水棲怪人テペト星人 テペト星人の円盤 ダン拘束具 監督-満田かずほ 特技監督-高野宏一 脚本-若槻文三 1968年7月21日 42 ノンマルトの使者 蛸怪獣ガイロス 海底原人ノンマルト ノンマルトの海底都市 鹵獲した原潜グローリア号 監督-満田かずほ 特技監督-高野宏一 脚本-金城哲夫 1968年7月28日 43 第四惑星の悪夢 ロボット長官 ロボット署長 第四惑星人 第四惑星の戦略部隊 監督-実相寺昭雄 特技監督-高野宏一 脚本-川崎高、上原正三 1968年8月4日 44 恐怖の超猿人 宇宙猿人ゴーロン星人 猿人ゴリー 脳波催眠(手術) 監督-鈴木俊継 特技監督-大木淳 脚本-上原正三、市川森一 1968年8月11日 45 円盤が来た サイケ宇宙人ペロリンガ星人 ペロリンガ星人の円盤群 不透視バリヤー 監督-実相寺昭雄 特技監督-高野宏一 脚本-川崎高、上原正三 1968年8月18日 46 ダン対セブンの決闘 ロボット超人にせウルトラセブン 侵略星人サロメ星人 カプセル怪獣アギラ 海底工場、飛行する水中翼船 監督-鈴木俊継 特技監督-大木淳 脚本-上原正三、市川森一 1968年8月25日 47 あなたはだぁれ? 集団宇宙人フック星人 フック星人の円盤 宇宙人居住区(団地に偽装) 監督-安藤達己 特技監督-的場徹 脚本-上原正三 1968年9月1日 48 史上最大の侵略(前編) 幽霊怪人ゴース星人 双頭怪獣パンドン セブン上司 ゴース星人の円盤 地底ミサイル 監督-満田かずほ 特技監督-高野宏一 脚本-金城哲夫 1968年9月8日 49 史上最大の侵略(後編) 幽霊怪人ゴース星人 双頭怪獣 改造パンドン セブン上司 12月31日は大晦日特番の為に休止。 映画 [編集] 第18話「空間X脱出」が、1968年7月21日公開の東映まんがパレードで上映された(同時上映:『太陽の王子 ホルスの大冒険』ほか)。 |
『ウルトラセブン』は、円谷プロダクションが制作した特撮テレビ番組、またはその劇中に登場するヒーローの名称である。1967年(昭和42年)10月1日から1968年(昭和43年)9月8日までにTBS系で毎週日曜日19:00 - 19:30に全49話が放映された。宇宙の侵略者から地球を守るウルトラ警備隊及び、地球人に協力するヒーロー・ウルトラセブンの活躍を描いた物語である。 『ウルトラマン』との設定上の違いは、『ウルトラセブン』では既に宇宙人が地球の社会に侵入していることである。メトロン星人のように地球人同士を戦わせて地球の侵略を図る宇宙人も登場する[1]。
「ウルトラマンセブン」と誤って呼ばれることが多々あるが、これは後年のウルトラシリーズで主役ヒーローはウルトラマンを冠した名になっているための誤解である。なお『ウルトラマンA』は企画時は本作に倣って『ウルトラA』となる予定だったが登録商標の都合で変更された経緯がある。 目次 [非表示] 1 作品としてのウルトラセブン 1.1 内容 1.2 当時の玩具展開 1.3 設定 1.4 時代設定 2 音楽 2.1 主題歌・挿入歌 2.1.1 もうひとつの主題歌について 3 放映データ 3.1 放映リスト 3.2 映画 4 スタッフ 5 登場人物・出演者 5.1 レギュラー・準レギュラー 5.2 ゲスト出演者 5.3 声の出演 6 再放送 7 漫画版 7.1 本放送時 7.2 本放送終了後 8 小説版 9 未制作話 10 映像ソフト化 11 バラエティ 12 その他 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 作品としてのウルトラセブン [編集] 内容 [編集] 本作は円谷プロの空想特撮シリーズ第3弾であると同時に、TBSのウルトラシリーズ第4弾(第3弾は東映(東京)制作の『キャプテンウルトラ』)として企画された。『ウルトラマン』と同様に「人類の平和のために戦う特殊チームと、それに協力する巨大ヒーロー」という図式が採用されている。しかし、その内容は『ウルトラQ』や『ウルトラマン』とは趣を変えており、放送当時はこの両作品との繋がりは設定されていなかった。シリーズの立ち上げに携わったメイン監督の一人の満田かずほによれば、「SF色を強めて対象年齢層を上げたり、様々な面で『ウルトラマン』との違いを意識した」という[2]。 『ウルトラマン』放送終了後、東映制作による『キャプテンウルトラ』が半年間にわたって放送され、その間に制作体制が固められたが、「敵は宇宙からの侵略者に統一する」という方向性が示された上で、新たな路線を目指すべく試行錯誤が続いた。そのなかで「ウルトラ警備隊」という企画案は、宇宙時代に活躍する地球防衛軍隊員たちと侵略者の戦いを描いたものであったが、変身ヒーローは登場しない設定であった。その後、手を加えられた企画は『ウルトラアイ』として発展するが、ウルトラ警備隊に主人公の「諸星弾」という少年が加わり、危機の際には彼が「レッドマン」に変身して異星人と戦うという内容に変更された。さらに、商標登録が完了するとヒーローの名前が『ウルトラセブン』と正式に決定した[3]。ウルトラセブンのデザイン担当には『ウルトラマン』同様に成田亨が起用され、メカニカルなものから甲冑のような形態に至るデザインを経て現在のものに変更された。 遊星間侵略戦争により地球が多くの宇宙人に狙われているという新たな世界観が加味されている。そのため、地球防衛軍という世界規模の軍事機構が組織されているという設定が導入され、ドラマも敵対的な宇宙人に対する諜報戦として描かれることが多いなど、軍事色が強い作品カラーになっている。また、個々のエピソードについてもドラマ性が重視され、 単なる悪役宇宙人の地球侵略のみならず、人類相互の信頼関係を皮相的に捉えた第8話「狙われた街」 地球防衛軍が行った新兵器実験の犠牲になった宇宙怪獣の悲劇を通し、軍拡競争への批判を描いた第26話「超兵器R1号」 地球で生きることを放棄した宇宙人の少女と、ウルトラセブン=モロボシ・ダンの価値観を対比した第37話「盗まれたウルトラ・アイ」 地球人自身が過去に地球を侵略した侵略者の末裔ではないかという疑問を投げかけ、ウルトラセブンの正義を根底から揺さぶった第42話「ノンマルトの使者」 など、娯楽作品の枠にとどまらない作品を生み出した。宇宙人や怪獣も「地球を狙う侵略者とその生物兵器」という趣が強くなって個々のキャラクター性が薄められ、劇中では名前すら明らかにされないケースも存在した。この点は怪獣のキャラクターを重視し、オープニングで怪獣名を出している『ウルトラマン』と大きく異なる点である。本作以降OPに怪獣のテロップがなかったウルトラシリーズの作品は『ウルトラマン80』及び『ウルトラマンティガ』(第11話まで)がある。 その一方で、サイズが自由自在であるなど、ウルトラマンよりも多彩な超能力を備えたウルトラセブンのヒーロー性や、ハードなものから幻想的なものまで多彩に使い分けられた戦闘シーンの演出、ウルトラ警備隊の爽快な活躍など、児童層をとらえるエンターテイメント性も追求された。本作の特徴として着ぐるみの流用が前2作品と比べて少ないことが挙げられる。これは着ぐるみショーがビジネス的に確立したので、着ぐるみが一体でも多い方が商業的にメリットがあったからである[4](『Q』や『マン』のころは着ぐるみショーがビジネス的に確立していなかったため、無理に新規の着ぐるみを作る必要が薄かった)。 本作は企画の段階より『サンダーバード』の影響を強く受けており[5]、商業展開上も前2作品よりはメカ類が多く発売された[6] 。人気絶頂にありながら、撮影スケジュールの遅延などで終了せざるを得なかった『ウルトラマン』の反省を踏まえて本作は『キャプテンウルトラ』の放映中にバンクシーンなどの撮り貯めが行われたが、なかでもウルトラホークなどの防衛軍超兵器の発進シークエンスは『サンダーバード』のそれを意識した作り込みがなされている。 本作は、前番組『キャプテンウルトラ』の視聴率が中盤より20%~25%に落ち込んでいたのに対し(平均25.6%)、ふたたび30%台に回復させ、局とスポンサーの評価を得た(前半26本の平均視聴率は30.7%)。しかし、前半で無理をしたこともあって、3クール以降は予算が切り詰められ、人間と同じ姿の侵略者しか登場しないエピソード(第33話「侵略する死者たち」、第37話「盗まれたウルトラ・アイ」、第43話「第四惑星の悪夢」)も生まれた。このような展開が児童層の視聴離れを招いてしまい、第35話「月世界の戦慄」で16.8%を記録したあとは、17%から23%の間を行き来する厳しい状態となった。マスコミはこの時期、妖怪ブームとスポ根ブームを喧伝しており、「もう怪獣モノは時代遅れ」の風潮が生まれていたのも大きい(『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年1月、『巨人の星』は同年4月スタート)。ただし、後番組『怪奇大作戦』の企画会議は1968年1月12日から本格的に始動しているため[7]、タケダアワーにおける「ウルトラQ空想特撮シリーズ」の終了は、決して本作の後半の視聴率低下が原因ではないことを強調しておきたい。最終回における、ウルトラセブン=モロボシ・ダンとアンヌ隊員の別れはTVドラマ史上に残る名場面となり、視聴率も放映開始時に近い28.5%を記録した。 当時の玩具展開 [編集] トイジャーナル1967年11月号の西武百貨店の海士慶二郎は、怪獣ブームは「子どもの日を境に急激に下降線をたどっています」と述べ、同記事の小出信宏社の石井販売課長は「怪獣ものから宇宙ものへ、消費者の好みは変わりましたね。最初ウルトラセブンの方が強かったんですが、ここへ来てサンダーバードの追い込みはすごいですよ」と述べている。さらに同記事の今井科学の草川克明によると「サンダーバードの発売によって当社は、プラ模型[8]市場を30%おさえた」としている。こうした風潮のなかで『ウルトラマン』に引き続き、本作の商品化権を許諾されたマルサン商店が発売したメカ類のプラモデルは好調な売れ行きを示した。マルサン社員だった鐏三郎は「マルサン、ブルマァクを通して一番売れたのが『ウルトラホーク一号』」と述べている[9](ブルマァクは鐏三郎が創業した第2期ウルトラシリーズの玩具を販売した会社)。 しかし怪獣ブームの衰退に伴い、当初は好調だった「ウルトラセブン」シリーズのプラモデルは売れなくなり、本作に大きく依存していたマルサン商店は倒産した[10]。『ウルトラマン』はターゲットを子供に絞りって子供に受けたが、スポンサーの武田薬品は「子供に受けても大人にうけなければ所期の目的は達せられない」と考えており、本作の対象年齢の引き上げを要求した[11]。一方、TBSは「日曜のゴールデンアワーは子供の時間帯」と認識していたのである。この意見の食い違いから、本作の玩具展開は迷走してしまったとも言える[11]。 もう一つの問題は商品化権の契約金の高騰である。前番組『キャプテンウルトラ』が不振だったため、各社は実績のあるウルトラマンの正当な後継者たる本作に熱く注目した。このため各品目で激烈な入札競争が行われた。この結果、契約金は高騰。契約した会社は高額の契約金を回収しようと大量に商品を供給した。市場に溢れた商品は、最初は消費者を満足させたが、満足しきってしまったために消費者は本作に対する関心を失っていったのである[12]。 その後、何度も行われた再放送により本作は『ウルトラマン』とともにウルトラシリーズを代表する高水準の作品として幅広く認知され、第2期ウルトラシリーズの誕生や1970年代末期における国産特撮ヒーローの再評価に大きく貢献することになる。また、主人公での出演ではないが『帰ってきたウルトラマン』に始まる第2期ウルトラシリーズや2006年の『ウルトラマンメビウス』とほかのウルトラシリーズでの共演により、ウルトラセブンを本放送放映終了後の世代に伝えることに成功した。 過去の円谷プロ作品をデジタル修復してDVD化する「デジタルウルトラシリーズ」にて前2作品を差し置いて第1弾作品に選ばれたほか、本放送終了から40年近く経っている現在でもCS放送や地上波再放送が頻繁に行われている。 第8話で放送された「狙われた街」の夕陽のなかでの決闘シーンはオールドファンの評価は高く、2005年に放送された『ウルトラマンマックス』では後日談として「狙われない街」を放送)し、倒されたメトロン星人が登場(監督はともに実相寺昭雄監督。夕陽のシーンを再現した。ただし、この放送では決闘シーンはない。 また、ウルトラマン30周年作品、35周年作品、40周年作品のように、ウルトラセブンも30周年作品、35周年作品、40周年作品を製作している。1994年から2002年にかけて、本作の世界観を継承した続編的作品となる『平成ウルトラセブン』(TV特番『ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦』及び『ウルトラセブン 地球星人の大地』、オリジナルビデオ作品『ウルトラセブン誕生30周年記念3部作』、『ウルトラセブン1999最終章6部作』、『ウルトラセブン誕生35周年“EVOLUTION”5部作』)、2007年には40周年記念作品『ULTRASEVEN X』が製作された。 設定 [編集] 人類が宇宙への進出を始めた近未来。宇宙では遊星間侵略戦争が激化し、地球侵略を企む宇宙人が次々と地球へ飛来した。 人類はこれに対し、国際組織「地球防衛軍」を結成して宇宙からの侵略者と戦い始めた。日本にも地球防衛軍の極東基地が建設され、富士山麓の広大な地下基地で300名の隊員が日夜、宇宙からの侵略に目を光らせていた。この極東基地には、各部署から選抜された精鋭隊員による特殊部隊「ウルトラ警備隊」が置かれ、地球防衛の最前線に立っていた。 そんなある日、クール星人による人間蒸発事件と、それに続く京浜工業地帯爆撃事件において、モロボシ・ダンと名乗る風来坊の青年がウルトラ警備隊に協力し、事件解決の功績を認められて彼はウルトラ警備隊へ入隊する。 モロボシ・ダンこそ、M78星雲から地球観測に来た恒点観測員340号だった。侵略の危機にさらされる地球を守るため、彼は地球に留まったのである。 ダンはウルトラ警備隊でも対処できない危機に際しては、ウルトラアイを着眼して本来の宇宙人の姿に戻る。そして、その超能力を駆使して侵略者や、その刺客である宇宙怪獣と死闘を繰り広げる。ダンの正体を知らないウルトラ警備隊は、自分たちに協力する真紅の宇宙人のことを、ウルトラ警備隊7人目の隊員という意味を込めて「ウルトラセブン」と命名した[13]。 この物語は、地球防衛の最前線で侵略者と戦うウルトラ警備隊と、クライマックスで登場するウルトラセブンの活躍を描いている。 時代設定 [編集] 本作の舞台は1987年と設定されているが劇中では明言されていない。SF作品としての設定上、宇宙開発や海洋開発などについては放映当時より進歩している演出があり、ドラマ上でも近代的なビル街や高級な邸宅など日常的生活感を排した背景が選択されていることが多い。しかし、未来世界の演出は一貫しておらず、1967年当時の日常生活や時代風俗が多い。これらについては、現在のようにシリーズ構成や総監督といった全体を統括する役職を設定していない上、各話スタッフのオリジナリティを優先し、自由度の高い作品作りをしていた為と思われる。また、この傾向は前作の「ウルトラマン」でも見られる。以下、作品世界の設定年代が明確な演出と製作当時の年代が見て取れる描写を記す。 演出意図の明確な年代表現 第43話で、ダンとソガが搭乗したロケット<スコーピオン号>が謎の惑星に着陸した際、現在日付を示すカウンターが<2000年8月30日>と表示されている。 第8話や第45話では日常生活感の強い下町を意図的に使い、未来世界と日常生活が同居する独特の世界観を演出している。 製作当時の年代の事物が現れるもの 相撲中継やプロ野球中継が劇中に挿入され柏戸や川上哲治など、当時のスポーツ関係者の名が聞き取れる。 第38話で昭和42年5月16日付けの新聞が登場している。 第42話でアンヌが着用しているトレーナーに、当時の人気グループ・サウンズであったザ・タイガースの公式ロゴがプリントされている。 第45話で蕎麦屋の軒先の張り紙に“ひやむぎ100円”とある。 最終話で「30億の全人類」との台詞があり、これは制作当時の世界人口とほぼ同じである。 音楽 [編集] 劇中音楽は冬木透が担当した。ジャズ色の強かった『ウルトラマン』から一変して、オーケストラ主体の楽曲が多くなっている。また最終回には、シューマンのピアノ協奏曲イ短調が使われていること[14]など、音楽の面ではクラシック音楽志向がうかがわれる。 主題歌・挿入歌 [編集] すべて作詞:東京一 / 作曲・編曲:冬木透。 『ウルトラセブンの歌』 歌:みすず児童合唱団、ジ・エコーズ 印象的な重厚な和音とそれに続くコーラスで始まることで有名で[15]、ホルンによる「合いの手」が入ることも極めて特徴的である(このような特徴は当時の同種の作品には見られない)。実相寺昭雄の回想によると、これには「子どもたちにハーモニーの楽しさを伝えよう」という製作サイドの意図があったという。実際に子どもたちの間では、冒頭のコーラス部分が一人では完全に歌えないため、何人かで集まって歌うことも行われた。この曲は、クラシック音楽の世界で「英雄の調」といわれる変ホ長調で書かれている。ちなみに主題歌を歌っている男性コーラスグループ「ジ・エコーズ」は、尾崎紀世彦がメンバーを務めていた「ザ・ワンダース」の変名である(冒頭の「セブン~」の男声コーラスの3番目が尾崎[16])。 初期録音のテイクは、2番と3番の歌詞が一部逆になっており、みすず児童合唱団のコーラスが中間部にも入る。初期版は一部のエピソードで挿入歌として使われた。平成ウルトラセブンでは、『ウルトラセブン誕生30周年記念3部作』までは完成版がオープニングに、初期版がエンディングに使われた。 『ウルトラ警備隊』 歌:東京マイスタージンガー 『ウルトラ警備隊の歌』と表記されることも多い。劇中では原則としてカラオケが使われているが、第5話のラストシーンのみ歌入りで使われた。 『ULTRA SEVEN』 歌:ジ・エコーズ 主に満田かずほ監督のエピソードで、ウルトラ警備隊の出動シーンに使われた。 『ウルトラ少年の歌』 歌:みすず児童合唱団 『THE THEME SONG OF "ULTRA-7"』 訳詞:Maya Taguchi / 歌:子門真人 ハワイでの放送に合わせて録音された、英語版主題歌。当時は現地のレーベルからのみ発売されていた。 テレビサイズはオリジナル版のカラオケにボーカルを被せているが、フルサイズはカラオケも新たに録音されている。 『ULTRA-7』 歌:子門真人 『ULTRA SEVEN』のカバー。『THE THEME SONG OF "ULTRA-7"』のB面に収録された。 もうひとつの主題歌について [編集] 本作の主題歌には、「ウルトラセブンの歌」の他に「ウルトラセブンの歌 パート2」(パートIIとも表記)が存在する。この曲名は後年LPレコードに収録された際の便宜上のもので、実際には同時期に2曲作られたうちの「採用されなかった主題歌の候補曲」である。 本来は主題歌とほぼ同じ歌詞があるが、作中では「マックス号応答せよ」の戦闘場面でカラオケの形で使われている。その後「宇宙囚人303」や「必殺の0.1秒」でも使われたが、これは同曲の出来を捨てがたく思っていた満田かずほが自身の監督作で作曲者・冬木透の了解を得て使ったものである[17]。 『ウルトラマンA』以降は、2番-3番の間奏に編集を施して、ゾフィー登場のテーマ曲として多用された(当時はゾフィー自身やウルトラ兄弟のテーマ曲が存在しなかったため)。 また『帰ってきたウルトラマン』でも採用されなかった主題歌が存在し、『ウルトラマンA』でも商標登録の問題から主題歌の歌詞が一部変更になっている。 |