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木村 和司(きむら かずし、1958年7月19日 - )は、日本のサッカー選手、サッカー解説者、サッカー指導者。ポジションはMF(攻撃的MF)又はFW(ウイング)。広島市南区大河出身。日本サッカー協会公認S級ライセンス所持。2010年シーズンより横浜F・マリノス監督。
目次 [非表示] 1 来歴 2 人物・プレースタイル 3 エピソード 4 所属クラブ 5 個人成績 6 獲得タイトル 6.1 日産自動車サッカー部時代 6.2 横浜マリノス時代 7 代表歴 7.1 出場大会など 7.2 試合数 7.3 得点数 8 指導者経歴 8.1 監督成績 9 参考文献 10 イベント出演 11 脚注 12 関連項目 13 外部リンク 来歴 [編集] 広島大河FC[1]から県立広島工業高校(通称:県工)に進学[2]。攻撃的サッカーで名を馳せた県工の中心選手として1975年度の高校選手権でベスト4の成績を残した。その後明治大学政経学部を経て、1981年に高校の先輩・金田喜稔のいる日本サッカーリーグ日産自動車サッカー部(後の横浜F・マリノス)へ入部した[3]。 1979年、明治大学2年で日本代表入りすると代表チームの常連となった。1983年のロサンゼルス五輪予選前までは右ウイングのスペシャリストとしてプレーしたが、所属クラブと同様に攻撃的MFとなり、攻撃の核となって80年代半ばの日本代表を支えた。しかし1987年のソウル五輪予選前、石井義信監督が守備的サッカーに方針を転換した事で代表から落選した。 1986年、当時のプロサッカー選手登録制度「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の第1号選手となる。「奥寺さんがプロのまま日本リーグに戻ってくるなら、わしもプロにしてくれ」と木村自ら名乗り出たものだった[4]。年俸は1200万円[5]。国産プロ第1号としての重責や、W杯予選敗退のショック等もあり、80年代後半には成績が低迷。日本代表チームからも攻撃的MFのポジションを水沼に譲る形で遠ざかっている。後に日産の日本リーグ・JSLカップ・天皇杯の三冠達成で再び脚光は浴びたが、以後日本代表に再び招集されることはなかった。 1993年、Jリーグ発足に伴って横浜マリノスと契約。既に全盛期は過ぎたものの「ミスター・マリノス」と呼ばれ[4][6]、翌1994年に現役を引退した。引退会見では「もっとサッカーが上手くなりたいです」という言葉を残し、その飽くなき向上心は記者・ファンに強い印象を残した。 引退後は、サッカー解説者の傍ら、フットサル日本代表の監督も務めていた。MFからいいパスを受けたにも関わらずFWがボンヤリしている状況を見ると「感じてない」と評することが多い。また近年は、テレビゲーム『プロサッカークラブをつくろう!』シリーズに解説者役で実名出演しており、木村の現役時代を知らない若い世代にもその名が知られている。テレビのサッカー解説では標準語だが、それ以外は広島弁がキツい。その広島弁での一人称から、横浜監督就任後の指導ぶりは“ワシ流”と称されるように。 現在は結婚しており横浜で会社(夫人が社長)を設立。サッカースクールなどの運営を行っている。 2009年11月、2010年シーズンより古巣である横浜F・マリノスの監督に就任することが発表された[7]。自身初の監督業挑戦となる。 人物・プレースタイル [編集] この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年8月に貼り付けられました。 高校や大学、日産加入当初はウインガーとしてプレーしていたが、1983年に同じウイングを専門とする水沼貴史の入団をきっかけに、加茂周監督によって攻撃的MFにコンバート。以降、ゲームメーカーとして中盤に君臨し日産黄金時代を築く原動力となった[8][9]。ラモス瑠偉らと共に日本サッカー冬の時代を支えた選手の一人であり、「日産の背番号10と言えば木村和司」と言わしめ、80年代半ばには日産のみならず、「日本の10番と言えば木村和司」、当時の代表は「木村のチーム」とまで言わしめた程の存在であった[10][11][12][13][14]。1983年、1984年、二年連続日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)、さらに1989年も同賞受賞。三度の受賞は釜本邦茂7度に次ぐ杉山隆一と並ぶ史上2位。1984年アシスト王、アシスト数12はJSL記録。1985年の国際Aマッチ6試合連続ゴールは日本記録[15][16]。また天皇杯に滅法強く、決勝に7回行って6回優勝[17]、いづれも大活躍し"ミスター天皇杯"とも称された[18]。 現役時代はフリーキックの名手として知られた[19]。自由自在にボールをコントロールできるフリーキックは、いまだかつて日本人プレイヤーが見せたことのないものだった[4]。その正確なボールコントロールと鋭い変化から「魔術師」の異名で呼ばれ、日本リーグ、国際試合で数々の名場面を作り上げた。特に1985年、ワールドカップメキシコ大会最終予選のホーム韓国戦、試合には敗れワールドカップに出場できなかったものの、40メートル手前からみせたフリーキックは、80年代の日本サッカーにおける屈指の名シーンとして伝説化しており、現在でもサッカー番組でフリーキックが特集される際には、必ずといっていいほど紹介されている[20][21][22]。出身地の広島を拠点とする中国新聞では「フリーキック自由自在」というコラムを設けていた。 前述のとおり背番号10番と言えば木村と言われるほどであり、本人も10番にはかなりのこだわりを持っている。しかしJリーグが開幕して間もない頃は、リーグ戦では現在のように固定番号制度が採用されていなかった為、たとえ木村であってもスタメンで出場していなかった試合では14番(ごく稀に15番)を付けていた。本人は14番で試合に出るのが嫌だったと言う。この間も天皇杯については、同大会の規定で、リーグ戦とは別に背番号が登録されるため、サブでも10番を付け続けた。 エピソード [編集] この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2010年8月に貼り付けられました。 木村の代名詞であるフリーキック(以下FK)だが、蹴り始めるきっかけはテレビで観たワールドカップで、ブラジル代表のペレやリベリーノがFKで直接ゴールに放り込むのを見たこと。蹴り始めたのは大学に入ってから。"FKでも直接ゴールを狙えるんだ"と思い、遊び感覚で練習に励んだ。とはいえ足の甲は蹴り過ぎで変型しているという。もともと高校時代はウイングだったため、センタリング(クロス)はFKの蹴り方に近いので、それがFKに生かされた。当時はまだ、日本の中にカーブをかけて、FKを直接入れるような選手はいなかった。FKといえばパワーのある選手が思いきり蹴るとか、横に流して蹴るとか、直接狙わず味方に合わせるかで、壁に向かって蹴ればよけるから入るかも、という感じだった。1980年代当時、フリーキックは世界のサッカーでは目にしても、日本サッカーでは現実ではなく、フリーキックが話題になることなどあり得なかった[19]。本格的に練習し始めたのは日産に入ってからで、チームが特注で作ってくれた鉄骨を組み合わせたものにネットをつけた簡単な壁を置いて練習した。練習相手に選んだのが新人だった松永成立。最初はヘタでどこに蹴っても入っていたが、練習してるうち段々松永が上手くなって、両方がいろいろ考え始めて上達していく相乗効果があったという。冗談で「シゲ(松永)はワシとしょっちゅう練習していたから日本代表に入れたんだ」とよく言った[23][20]。 明治在学中の木村を日本代表に最初に抜擢したのは、当時の代表監督・渡辺正だが、木村は"非常にコントロールの難しい選手"といわれ、練習嫌い、わがままという評判があり、渡辺と同郷でもあったため大学卒業後は新日本製鐵サッカー部入りが確実とされ、他はどこも手を出さなかった。しかし諸般の事情により日産に入部した[24]。 木村が代表のスター選手だった1984年夏、佐山一郎は雑誌『Number』からの依頼で木村にインタビューを申し込んだ。日産の広報の担当者にそれを話すと、サッカーの専門誌以外から取材が来たのは初めてと驚かれた。当時のサッカーは『Number』ですら同じ年9月20日号の釜本邦茂引退記念号で初めてサッカー特集が成立するというマイナー状況だった。「大丈夫ですか、慣れていないから喋んないかもしれませんよ」と言われインタビューをすると、実際木村はほとんど喋らず、答えたあとに意味不明の笑いが漏れだすのにも驚嘆した。しかし会うたび喋るのがうまくなったという[25]。 木村の夫人は、サッカーファンが多くはなかった1960年代、日本サッカーリーグ(JSL)創設の頃からのサッカーの追っかけで、まだ原宿の岸記念体育会館の小さな一室にあったサッカー協会(JFA)に、全日本(日本代表)の勝利を祈り千羽鶴を持ってきたり、よく遊びに来ていた一人だったという[26]。 「ラグビーは紳士がやる野蛮なスポーツ、サッカーは野蛮人がやる紳士的なスポーツ」という発言をナンバー誌上に残している。 かつての自身のブログ「木村和司のちょこっと、言うちゃろうか。」で、「60年、70年代はガマさんの時代やな、80年代はワシや。90年代はスケールダウンしてカズ、ラモスあたりかの。2000年はまだいないんよな。80年代のワシはかなりイワシテいたのぅ。」と話して物議を醸したことがある[27]。 広島弁を交えたコメントが話題となっている[28][29][10]。監督就任時のコメント「わしが何とかしちゃる」のメッセージ入りTシャツや「和」のロゴ入りTシャツが商品化されよく売れているという。また語源不明のサッカー用語といわれる「ちゃぶる」もグッズ化の計画があり、Jリーグ日本人監督のグッズが次々と誕生するのは異例の事態という[30]。 負け試合に関し、試合内容や自らの采配について話すよりも、「ヘタクソ」と冗談半分に選手を批判することが多い。 |
梶山 陽平(かじやま ようへい、1985年9月24日 - )は、東京都江東区出身のサッカー選手。ポジションは攻撃的ミッドフィールダーまたは守備的ミッドフィールダー。Jリーグ1部(J1)のFC東京に所属。家族は妻と1女1男。
目次 [非表示] 1 経歴 2 所属クラブ 3 個人成績 4 代表歴 5 個人タイトル 6 トピックス 7 脚注 8 関連項目 9 外部リンク 経歴 [編集] 小学5年の時に「家から近かった(梶山談)」ことから東京ガスサッカースクールに入会し、以後、FC東京U-15、U-18と昇格したクラブ生え抜き選手。U-18所属の頃から第2種登録選手としてトップチームに帯同し、2003年3月8日のナビスコカップ予選リーグ・横浜F・マリノス戦(横浜国際)にて後半30分から投入され公式戦初出場。当時高校2年生であった。3年生になった同年4月29日のヴィッセル神戸戦にてJ1リーグ戦でのデビューも果たした。当時から、東京都選抜のチームメートである小椋祥平が「預けておけばボールを取られるようなことはない」と話すなど[1]突出したボールキープ力を持っていた。 正式にトップチームに昇格しプロ選手となった翌2004年からコンスタントに試合に出場するようになり、主にトップ下でプレー。公式戦初ゴールはナビスコカップ予選リーグ第2節の鹿島アントラーズ戦。中盤から走り込みミドルシュートを突き刺した。リーグ戦初ゴールは同年8月の東京ダービーで、こちらもミドルシュートによるゴールだった。2ndステージ第14節ジェフ市原戦では、右足でシュートを空振りして相手をかわし[2]、直後に左足でゴールを決めるなど活躍を印象付け、この年のJリーグ優秀新人賞を受賞した。 その後怪我に苦しみ左膝を手術したが、2005年のワールドユース・オランダ大会には、リハビリ明けながら3試合に出場。同年7月にはフィジカルの強さなどを評価され[3]、宮沢正史らを押しのけ東京でのレギュラーに定着。以降守備的MFの位置で先発出場するようになるが、試合によって調子の波があるという短所があり改善に努めている[4]。 2007年は北京オリンピックサッカーアジア予選への招集や、福西崇史の加入によって序盤は出場機会を減らすものの、運動量を増やし[5]第11節以降ポジションを奪い返した。J1第23節サンフレッチェ広島戦ではゴールまで28メートルの距離から無回転フリーキックを決めている。9月12日の北京オリンピックアジア最終予選第3戦U-22カタール代表戦での左脛骨高原骨折によりシーズン後半をリハビリに費やした。 2008年からはエースの象徴でもある”背番号10”を託されている。これはチームの悲願であった『ユース出身者による背番号10』の誕生でもあった。2008年北京オリンピック・サッカー日本代表(U-23)でも背番号10を背負い、香川真司が「一緒にやっていてもうまい。縦パス1本でもアイデアがある。攻撃の核」と話すなど[6]、同代表のチームメートからも一目置かれ期待されたが、日本は3戦全敗で梶山も強い存在感を示す事が出来なかった。同年から城福浩がFC東京の監督に就任し、中盤の底のポジションでの守備面の安定感も増加[7]。攻撃の基点としてパスを各所に配球しチームの心臓として機能。石川直宏が「FC東京は(梶山)陽平のチーム」とコメントするなど、チームの主軸として確固たる存在となった。 2009年12月、長らく痛みに苦しんでいた左足首と右膝を手術して症状の回復を図り[8]、2010年開幕戦にて途中出場で復帰を果たした。 |