├─≠ョ─ヵラス 槇原敬之├─≠ョ─ヵラス 槇原 敬之(まきはら のりゆき、1969年5月18日 - )は、日本のシンガーソングライター・作詞家・作曲家・編曲家。現在の所属レコード会社(レコードレーベル)はJ-more。公式ファンクラブは「Smile Dog」である。身長176.2cm。
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1 人物
2 来歴
3 松本零士との裁判
4 エピソード
5 ディスコグラフィ
6 出演番組
7 他者への提供楽曲
8 他者作品への編曲参加等
9 主な他アーティストによるカバー作品
10 主なサポートミュージシャン(レコーディングを含む)
11 その他参加作品
12 脚注
13 外部リンク
人物 [編集]
1969年、大阪府高槻市で電器店を経営する夫妻のもとに生まれる。兄弟はおらず、一人っ子。愛称「マッキー」。
親戚には、同じくミュージシャンのローリー(従兄、すかんちのローリー寺西)と日産の元レーシングドライバーの寺西孝利がいる。槇原、ローリー共に実家は地元・大阪府高槻市の電器店を経営(槇原家が支店)。
大阪府立春日丘高等学校卒業後、青山学院大学文学部第二部(夜間部)英文学科中退。高校時代の同級生には、兵庫県立大学教授の車井浩子がいる。
大の愛犬家で、2010年7月現在はフレンチ・ブルドッグを7匹、パグを1匹飼っている。
オリジナル曲に関しては、ほぼ全曲の作詞、作曲、編曲を槇原本人がこなす。
楽曲制作については、「詞先(しせん)」と呼ばれる、詞を先に作る方法を多用する[2]。作詞の題材は、主に日常の生活に起こる出来事や恋愛模様であり、現実感のある言葉を用いた表現が選ばれることが多い。反対に観念的表現が直接的に用いられることは少ない[2]。
楽曲の作風について、特に初期の作品では、恋愛における男性の幼さ、弱さをアイロニックに表現するような歌詞に独自の特色が見られた。近年では、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」や「僕が一番欲しかったもの」など、生きることや人のアイデンティティについて深く掘り下げた作品(本人が言うところの「ライフソング」)を発表している。
来歴 [編集]
1984年、高校在学中の16歳時、坂本龍一が当時担当していたNHK-FM放送の番組『サウンドストリート』のデモテープコーナーに、アーティスト名「C・M・C」(コンプレッサーズ・ミュージック・クラブ)として「HALF」という楽曲を応募する。楽曲を聴いた坂本から「良いバランスで仕上がっている。言う事なし」と絶賛を得て、番組では異例のフルコーラスが放送された。同曲は、その後、同企画での優秀作品をまとめたコンピレーション・アルバム]『Demo Tape-1』(MIDI)に収録された[2]。
同曲を制作したアーティスト「C・M・C」は実質槇原の1人ユニットであり、『Demo Tape-1』のライナーノーツにも、「作詞・作曲・歌・演奏-槇原敬之」とクレジットされている。
同曲のレコーディングとミキシングエンジニアを担当していた沢田知久は、中学校当時から槇原の親友であり、槇原のメジャーデビュー後にも彼の楽曲制作にエンジニアとして参加したり、音楽雑誌のインタビュー記事に2人一緒に掲載された事もある。
1990年3月 「AXIA MUSIC AUDITION '89」で、グランプリを獲得。デモテープを聴いた一般の音楽ファンからの投票で選ばれる「一万人審査員賞」とのダブル受賞であった。応募曲は後にデビューシングルとなる『NG』で、サポートギタリストは寺西一雄(ローリー)。
1990年10月25日 シングル「NG」とアルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でWEAミュージック(後にワーナーミュージック・ジャパンに併合)よりデビュー。
1991年6月10日 3枚目のシングル「どんなときも。」発売。同曲は、映画『就職戦線異状なし』主題歌、ケンタッキーフライドチキンのCFソングに選ばれるなど話題となり、シングル、アルバム通じて自身初のミリオンセラーとなった。これは現時点におけるシングルの自己最高売上記録でもある。これらの活躍により、同年の第42回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。また、同曲は翌1992年の春の選抜高校野球入場行進曲にも選ばれた。
1996年 全曲ネイティブ・スピーカーによる英語詞のアルバムをリリース。同アルバムからシングルカットされた楽曲のPVはイギリスのデザイン集団Me Companyが制作、CGを駆使したアニメーション作品が話題を呼ぶ。
1997年 ソニー・ミュージックエンタテインメントに移籍。
1999年8月26日 覚醒剤所持が発覚。情報を得て内偵中だった警視庁本富士警察署の捜索を受けた際、自宅から発見され、覚せい剤取締法違反(所持)現行犯で逮捕される[3]。本人は300万円の保釈金によって保釈[4]、その後に執行猶予付きの有罪判決を受けた(懲役1年6月、執行猶予3年)。このときCDが発売元のレコード会社によって店頭から回収される動きがあり[5]、ファンが買いに走ったために、過去の作品の売上が伸びるという現象が起こった[6]。
2000年 以前所属していたワーナーミュージック・ジャパンに復帰移籍し、11月にアルバム『太陽』で活動再開。
2003年 自身が作詞・作曲し、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」がダブルミリオンを記録。
2004年 レコード会社をEMIミュージック・ジャパンに移籍。
2004年 前年のヒットを受け、「世界に一つだけの花」が春の選抜高校野球入場行進曲に選ばれる。
2004年8月 13枚目のオリジナルアルバム『EXPLORER』とベストアルバム『Complete Recorded』が発売され、翌月にはアルバム総売上枚数が1,000万枚を突破。男性ソロ歌手としては井上陽水、長渕剛に次いで3人目であり、初チャートインから13年2ヶ月での達成は史上最速記録となった。
2006年3月 14枚目のオリジナルアルバム『LIFE IN DOWNTOWN』で、アルバム総売上枚数が井上陽水を抜き、男性ソロ歴代1位となる。
2007年 レコード会社をエイベックス(レーベルはJ-more)に移籍。
2007年12月31日、36枚目のシングル「GREEN DAYS」で16年ぶりに第58回NHK紅白歌合戦に出場。
2010年1月1日に20周年記念ベストアルバム「Noriyuki Makihara 20th Anniversary Best LOVE」と「Noriyuki Makihara 20th Anniversary Best LIFE」の2枚を同時発売。
2010年6月30日に17枚目のオリジナルアルバム「不安の中に手を突っ込んで」発売。
2010年7月21日発売されたSMAPのオリジナルアルバム「We are SMAP!」に「Love & Peace Inside?」を提供。
デビュー20周年記念ライブとなる「NORIYUKI MAKIHARA SYMPHONY ORCHESTRA CONCERT "cELEBRATION 2010"~Sing Out Gleefully!~Supported by BEAMS」を10月に大阪城ホールと日本武道館にて開催予定。
※ ヒットチャートに関する数字はすべてオリコン調べ
松本零士との裁判 [編集]
「松本零士#銀河鉄道999裁判」を参照
エピソード [編集]
自らの音楽のルーツについて本人が語るところに寄れば、ピアノを習い始めたきっかけは保育園の保育士がピアノで弾いた「エリーゼのために」に感銘を受けたから、とのことである。
中学2年頃から友人と共に楽曲制作を開始。この頃聴いたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に大きな衝撃を受け、「体の中が全部YMOだった」と語るほど夢中になったと語っている。YMOは、以降の槇原オリジナルの楽曲、特に音作りの部分に多大なる影響を与える。相当影響を受けた様で、テレビで「YMOと出会ってなかったら音楽はやってなかった」と言う程である。後に「君に、胸キュン。」をカバーしている事からもYMOの影響を受けた事が窺える。
当時、制作した楽曲入りのカセットテープを近所のレコード店にたびたび持ち込み、そうした作品が「close to you」という2曲入り300円のテープとして発売された事がある。これが槇原にとって人生で初めて市販された音楽となった。
ボーカルは、当初は作曲機材の少なさを埋める程度のものと考え、本人は現在のように本格的に人前で唄う仕事よりも作曲家などの裏方仕事を目指していたようである。しかし、後にカーペンターズに影響を受けてボーカルの楽しさにも目覚めた。
大学受験浪人中も音楽活動を続けていた。三浪して当時憧れの存在だった桑田佳祐もかつて在籍していた青山学院大学文学部英文学科の第二部(夜間部)入学したが、のちに芸能活動が忙しくなりやむなく中退した。ラジオ番組において、番組のスポンサーであった駿台予備校を読み上げた際には、「僕、予備校時代には駿台予備校に通っていたんですよ」と語ったこともある。
関西学院大学も3回受験しているが結果は全て不合格。同校を受験した理由は、当時音楽面で影響を受けていた大江千里が卒業した大学だったからと、後に雑誌のインタビューで語っている。なお、槇原はカバーアルバム『Listen To The Music』で大江の「Rain」をカバーしている。
1991年の「どんなときも。」ヒット当時、内村光良(ウッチャンナンチャン)はバラエティ番組ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!において、槇原をデフォルメした「ドンナトキモ槇原」というキャラクターを演じていたことがある。
出身校である高槻市立柳川中学校の先輩には京本政樹、大阪府立春日丘高等学校の先輩に嘉門達夫がいる。嘉門と槇原はどちらが先に年末のNHK紅白歌合戦に出場するかを競い合っていたが、勝負の結果は槇原が1991年初出場、一方の嘉門は翌1992年初出場となり、後輩の槇原が辛くも勝利を納めることになった。
フジテレビ「僕らの音楽2」で美輪明宏と共演した際、覚せい剤事件での謹慎中に美輪の著書『紫の履歴書』を読んで感銘を受けたことを涙ながらに語っている。美輪との関係では、事件以降にリリースしたカバーアルバム『Listen To The Music 2』において、美輪の「ヨイトマケの唄」をカバーしている。
槇原と同じく歌手のaiko共々お互いがファンで、2008年2月放送のHEY!HEY!HEY!にてお互いのメールアドレスを交換したりもしている。
本人は出演のラジオ番組にて麻薬事件を、「常に音楽性の変化(チャレンジ)を求める自分と、ヒット楽曲をコンスタントに求めるレコード会社(世間)とのギャップに悩んだ弱さの結果だ」と語っている。
容姿が漫画家のみずしな孝之とよく似ている。みずしなによれば以前あるテレビ局の局内で二人がばったり出会ったことがあり、その際に「よく似てますね」と槇原からお墨付きをもらったという。
尾崎豊が生前に愛用していたベンツを買い取り使用していたことがある。
薬物での逮捕歴がある芸能人の場合、仕事復帰後はそれをタブー化してしまうのが普通だが、槇原の場合は、テレビ番組出演時などもそのことについて隠すことなく話し、それがそのまま放送されていることも少なくない。逮捕という経験が自らの人生観や楽曲に及ぼした影響や、矢野顕子に激励されたエピソードなどを話すことが多い。
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