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【2024/10/06 07:40 】 |
ロベルト・バッジョの踊り
ロベルト・バッジョ(Roberto Baggio, 1967年2月18日 - )(バッジオ/バッジォと表記することもある )は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身のサッカー選手。 1993年欧州年間最優秀選手、FIFA最優秀選手。03-04シーズンで現役引退。セリエA通算205ゴールは歴代5位。キャリア318ゴールはイタリア人№3である。使用スパイクはデビューから引退までディアドラ。1999年、イタリア代表での試合など一時期のみkappaを使用。
「イタリアの至宝」、「偉大なるポニーテール」と称され、現役を退いた今も世界中に多くのファンをもつ。ファンタジスタの象徴的な存在として知られ、華麗なプレースタイルはアレッサンドロ・デル・ピエロやフランチェスコ・トッティらが、その系譜となる。今ほど衛星放送(CS・BS)が普及していなかった頃からすでに彼の名は日本などでも知られていた。また、弟のエディ・バッジョもサッカー選手である。
趣味はハンティング。通称は「ロビー」、愛称は「コディーノ」(馬の尻尾。髪型に由来する)。[1]。
カトリック信者がほとんどを占めるイタリアでは珍しく、敬虔な創価学会信徒でもある。
目次 [非表示]
1 クラブチーム
2 イタリア代表
2.1 1990年イタリア大会
2.2 1994年アメリカ大会
2.3 1998年フランス大会
2.4 1998年以降
3 プレースタイル
4 語録
5 タイトル
5.1 クラブ
5.2 個人
6 個人成績
7 出典
8 関連書籍
9 関連作品
クラブチーム [編集]

キャリアを通じてイタリア国内リーグで活躍。1981年にセリエC1のヴィチェンツァでデビュー。1984-85シーズンに12得点を記録。1985年にはセリエAのフィオレンティーナに移籍した。ところが契約成立からわずか2日後、右膝十字靭帯断裂の大怪我を負う。それでもフィオレンティーナは契約を破棄せずに辛抱強く回復を待った。移籍直後の1985-86シーズンを欠場、1986-87シーズンも数試合の出場だけにとどまってしまう。だが、怪我の回復した1988-89シーズンには15得点をあげ、ヴィオラはUEFAカップ出場。1989-1990シーズンには17得点の活躍。マラドーナ率いるナポリ相手に見せた、ドリブルで独走して決めたゴールは有名。
1990年、当時史上最高額の150億リラという移籍金でユヴェントスに鳴り物入りで移籍。ユヴェントス移籍がヴィオラのオーナーによる一存で、フレンツェでは暴動が起こっている。バッジョ自身も望まぬ移籍だったため困惑していた。1992-93シーズンに21得点を挙げ、チームをUEFAカップ優勝に導いた。これはユヴェントスにとっては久々のヨーロッパタイトルだった。この功績・貢献が認められ、同シーズンのFIFA最優秀選手賞とバロンドールを受賞。
その後、自身の怪我と若手のアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭するなか、若返りを推し進めるユベントスは、1995年ライバルチームであるACミランへ放出してしまう。ACミランではファビオ・カペッロ及びアリゴ・サッキ監督がFWにはデヤン・サヴィチェヴィッチを重用、さらにバッジョ本人の怪我もあり、在籍2シーズン中は、さしたる活躍はできなかった。特にサッキはバッジョからPKキッカーを取り上げるばかりか、完全にピッチから彼を追い出した。
しかし、ワールドカップシーズン直前の1997-98にボローニャに心機一転移籍すると、自己最多の22得点をマークして結果を残す。このためワールドカップ予選ではまったく呼ばれなかったが、見事に本大会メンバーに選考される。
1998年から、インテルで2シーズン過ごす。移籍初年度の1998-99シーズンはバッジョとロナウドが同時期に所属することとなる。同年のUEFAチャンピオンズリーグのレアル・マドリード戦ではバッジョは2ゴールを挙げる活躍を果たす。だが、ロナウドはキャリアを左右する膝の大怪我、バッジョも何度も負傷を起こし、結局この二人が組むことはほとんどなかった。その後も、怪我ととりわけマルチェロ・リッピ監督との確執によって再び出場機会が減少してしまう。
このインテル時代のハイライトは、2000年5月23日のCL出場権プレーオフのパルマ戦であろう。このシーズン、インテルはスクデット争いにさえも参加できない低調なシーズンであった。そのため、クラブ首脳陣はCL出場権を獲得しなければ、監督更迭をも視野に入れていた。そんな中で、この試合はまさにバッジョのためのゲームだった。前半35分にFKで先制、同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点を奪う活躍を見せ、この試合でバッジョは退団、有終の美を飾り、CL出場権を獲得したリッピは監督続投決定、というなんとも皮肉な結果に終わる。翌日のガゼッタ・デロ・スポルト誌での評価点は満点の "10" だった。(通常、最高評価点である10が出ることは滅多になく、引退する選手へのご褒美もしくはピッチ上で人命救助を行った選手に与えられる)。
2000年から、カルロ・マッツォーネ監督の下ブレシアで4シーズンを過ごす。
2001-02シーズンでは、日本でのワールドカップ出場のため、シーズン前半にゴールを量産。しかし、ワールドカップイヤーの2002年1月31日のコッパ・イタリア準決勝パルマ戦で彼は左膝十字靭帯に全治6ヶ月の怪我を負ってしまう。誰もがワールドカップ出場が絶望と思われたが、彼は本大会出場を目指し驚異のリハビリで僅か2ヶ月で復帰。4月21日のフィオレンティーナ戦で後半25分から出場すると、そこから2ゴールを挙げ奇跡の復活を果たした。だが、こうした彼の努力も報われず、当時のイタリア代表監督ジョバンニ・トラパットーニは本会メンバーに彼を選ばず、チームも本来の力を出せずにベスト16で姿を消した。ちなみにこの年の前半でも靭帯を故障しており、コッパ・イタリアの試合が復帰2試合目だった
2004年5月16日のサン・シーロでのACミラン戦を最後に引退した。この試合で83分にバッジョの途中交代が告げられると、バッジョに対してスタジアム全体からスタンディングオベーションが送られた。ブレシアの背番号10はクラブの永久欠番となっている。ちなみに、ブレシアのクラブショップでは彼の引退後も、新しいレプリカユニフォームにNo,10/BAGGIOのネームナンバーが入った物が発売されている。
独自の美学を貫いたため監督と意見が合わず、幾つもチームを渡り歩くキャリアであった。監督の立場としては、怪我が多く常時戦力と期待できない面もあったとされる。しかし、守備戦術が横行するファンタジスタ受難の時代においても、バッジョのサッカーセンスは何処でもまばゆい輝きを放ち続けた。 また、優れた人格者で、人をひき寄せる魅力があり、バッジョと共にプレーするために移籍する選手もいたほどである。
イタリア代表 [編集]

バッジョはW杯イタリア代表においての活躍が目立つ一方、欧州選手権にはキャリアを通じて縁がなかった。1988年11月16日オランダ戦でイタリア代表デビュー。1989年4月22日ウルグアイ戦が初ゴール。イタリアW杯、アメリカW杯、フランスW杯に出場し、3位、準優勝、準々決勝進出と、いずれもベスト8に入った。ちなみに3大会の敗退はいずれもPK戦によるもので、バッジョは3大会ともPKキッカーを務めている。
1990年イタリア大会 [編集]
1990年の地元開催では当初はスーパーサブ的存在であったが、グループリーグ第3戦目のチェコスロバキア戦において、中盤から単独ドリブル突破を仕掛け、ディフェンダーを次々と抜き去ってゴールを決めた。この得点は、大会のベストゴールのひとつと数えられ、バッジョはイタリア代表の新たな旗手として世界に名を知られることになった。バッジョ自身のサッカー人生にとっても間違いなくハイライトとなるゴールのひとつである。しかし当時は、同じサブメンバーからついには大会得点王になった”救世主”サルヴァトーレ・スキラッチほどは注目されなかった。それだけ、スキラッチの活躍は眩いものであった。順調に勝利を重ねて迎えた準決勝。相手はマラドーナ率いるアルゼンチンであった。この試合、なぜかビチーニ監督はバッジョをスタメンから外し、変わって不調に陥っていたジャンルカ・ヴィアリを先発させる。その時のヴィアッリの発言である「ハードな試合にはハードな男が必要なんだ」の発言は余りにも有名。 結局イタリアはアルゼンチンに1-1に追いつかれた後、PK戦で破れてしまい、バッジョを先発させなかったビチーニ監督に非難が集中した。フル出場した三位決定戦のイングランド戦ではピーター・シルトンの致命的なミスを付いて先制点を記録し、さらには決勝点となるPKを誘い(彼はキッカーを大会得点王のかかったスキラッチに譲った)、幻に終わった試合終了間際のゴールの基点となるなど、存分に持ち味を発揮した。
1994年アメリカ大会 [編集]
バッジョが出場した3大会で、最もその存在感を示したのは1994年のアメリカワールドカップであることは間違いない。ヨーロッパ予選では、イタリアの10番、まさにエースと呼ぶにふさわしい活躍でチームを本大会出場に導く。さらには前年の1993年にバロンドールを受賞していたこともあって、周囲の期待は大いに高まっていた。ところが本大会直前に右足に怪我を負ってしまう。一抹の不安を抱えたまま、ついに1994年ワールドカップを迎えた。
不安は現実となり、予選グループ初戦を落としたイタリアは、1勝1敗1分けで辛うじて決勝トーナメント進出(当時の規定でグループ3位ながら救われた)。気温40度を超すピッチで「ゾーンプレス」戦術が機能しにくかったことが苦戦の原因だが、特に無得点と精彩を欠くバッジョへの風当たりは厳しく、地元メディアはジャンフランコ・ゾラへの交代を唱えた。さらに屈辱的だったのは、第2戦ノルウェー戦でペナルティーエリア外での故意のハンドの反則をしたGKジャンルカ・パリュウカが退場処分となった際、アリゴ・サッキ監督が控えGKルカ・マルケジャーニの投入のためにバッジョをベンチに下げたことである。このとき、バッジョはサッキに対して「狂っている」と漏らしたといわれる。試合後にサッキは「(足を怪我して)走れないバッジョを人数の少なくなった状況では使いづらいから」と説明したが、エースと監督の信頼関係は微妙なものになっていった。
サッキは1人の力に依存する方法に否定的ではあったが、チーム内は徐々にバッジョを中心とした攻撃態勢が整いつつあるなど意識統一が明確となっていった。しかし決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦でも先制を許し、反撃の切り札で投入したゾラが退場処分となり1点を追い掛ける苦しい展開になる。しかし、試合終了直前の89分、ついにバッジョが劇的な同点弾を決め、延長戦でもPKを沈めてエースの真価を証明した。同点弾は冷静にゴール右隅を狙ったバッジョらしいシュートで、地元新聞は「アズーリを帰りの飛行機のタラップから引きずり下ろした」と見出しを打って賞賛した。
その後も、眠りから醒めたようにバッジョはゴールを量産した。準々決勝のスペイン戦でも再び終了直前にカウンターから決勝点をあげて、2-1で勝利。準決勝のブルガリア戦でも続けざまに芸術的な2得点を挙げて2-1と勝利した。決勝トーナメントの準決勝までの3試合でチーム6得点中5得点、どのゴールも試合を逆転・決定するもので、酷評から一転して救世主扱いとなった。しかし、準決勝で右足を再び痛め、決勝への出場が危ぶまれた。
決勝のブラジル戦はバッジョとロマーリオのエースFW対決(大会得点王争い)が見所のひとつであった。灼熱のようなむせ返るほど高い気温の中、バッジョは強行出場したものの精彩を欠き、試合はワールドカップ決勝史上初のPK戦となった。ブラジルがリードを保ったまま最終キッカーであるバッジョの番となるが、彼はゴール左上にはるか高く打ち上げてしまう。これによってイタリアは優勝を逃した。このPKには大きく分けて3つの見解がある。ブラジル、イタリア国内(世論)、そしてバッジョのものである。第1にブラジルでは、バッジョのシュートは空高く吸い込まれていったことから、同じ年に悲劇の死を遂げた同国のアイドル、「アイルトン・セナの手だ」というもの。第2にイタリアでは、「筋肉疲労と極度の緊張、暑さからだ」というもの。 そして最後にバッジョの見解であるが、「仏陀からの究極の問いかけである」というものである。ちなみに、バッジョは未だ答えを見つけることはできておらず、さらにはあの出来事をまだ夢で見ることも幾度となくあるという。このとき、腰に手をあててうなだれるバッジョの後姿が撮影された。この一枚は、これまでの数多あるスポーツに関する写真の中でも最も美しく、最も儚い写真であると評する声が多い[要出典]。
大会MVPこそロマーリオに譲ったが、バッジョは悲劇の英雄としてサッカーファンの胸に感動を刻んだ。しかし、イタリアを決勝まで導いた原動力であるにもかかわらず、PK失敗をとりあげてバッジョを標的とした批判もなされた。 後にサッキ監督がバッジョのスタメン志願を「チームに不利益を招いた」と非難し、しばらく代表から遠ざかる結果となった。
1998年フランス大会 [編集]
1998年フランスワールドカップではデル・ピエロに10番を譲ったが、新たなエースとして期待されたデル・ピエロに代わり、大会で活躍したのはまたしてもバッジョだった。2得点1アシストをマーク。まず初戦チリ戦で先発出場。最初からチリが押し気味に試合を進め、イタリアが守ってカウンターを狙うゲームとなった。10分、まさにそのカウンターが見事に決まった。マルディーニからのゆうに50m以上あろう距離のロングボールをバッジオが完璧なコントロールでダイレクトでスルーパスを走りこんだビエリに通しアシストを記録、これはまさにバッジョのうまさが光った場面である。その後追いつかれるが、バッジョ自らPK誘い、4年前の因縁のPKを決めてトラウマを払拭。この時、彼の頭にアメリカでの出来事が蘇ってきたとのこと。準々決勝のフランス戦では途中出場し、延長後半に決定的ともいえるボレーシュートを放つ。難しい体勢からながらも全盛期のバッジョを彷彿とさせる一瞬であったが、イタリアにとっては惜しくもボールはクロスバーを越えていった。結局、イタリアは3大会連続PK戦敗退という失望を味わうが、今回最後に失敗したルイジ・ディ・ビアジョを優しく慰めるバッジョの姿が印象的であった。
1998年以降 [編集]
1999年以降は代表からは遠ざかる。現役引退を表明後の2004年4月28日にジェノヴァで行われたスペインとの親善試合にキャリアへの敬意から特別招集され、この試合を最後に代表を引退した。尚、ロベルト・バッジョのイタリア代表ゴール数は56試合27ゴール。そのうち得点を決めた試合の成績は22試合中18勝4分で“バッジョが点を決めれば負けない”神話を持つ。
プレースタイル [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年11月に貼り付けられました。
ポジションはセコンダプンタ(セカンドトップ)またはトレクァルティスタ(トップ下)。重心の低いドリブルはスピードとテクニックを兼ね備え、1対1では得意の間合いになるとDFをさらりとかわしていく。ボールを無理にこねる癖もなく、球離れの悪さはない。シュートは隅をつく技巧的なキックを持ち味とし、GKの手の届かないポイントを落ち着いて狙うのが特徴である。ボレーキックなどボールに合わせる場合も、強さよりも正確なミートで蹴りこむ。
プレースキッカーとしても一流で、FKの精度は非常に高く、バッジョ自身が最も尊敬する元ブラジル代表のジーコをして「バッジョのFKは見事という他ない、もし同じ時代にプレーしていたなら教えを乞うよ」と言わしめた。
ここ一番の勝負強さも持ち合わせており、代表、クラブのいずれもバッジョの存在を印象づける得点が多い。現役最終の2003-04シーズンには、センターフォワードタイプではないにもかかわらずセリエA通算200得点(史上5人目)を挙げるという偉業も達成した。
語録 [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年7月に貼り付けられました。
自身の言葉
「今を戦えない者に、次や未来を語る資格はない」
「思いついたプレーの中で最も難しいものを選択している」
「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」
W杯フランス大会でPKを外したルイジ・ディ・ビアッジョに対してかけた言葉。しばしば誤って報道されるが、アメリカ大会後に自分のことを指して発言したものではない。
「PKを決めても誰も覚えていないが、外したら誰もが忘れない」
こちらもアメリカ大会ではなく、フランス大会後の発言である。
「私はサッカーに恋をした」
「諦めるより夢を見る方が性に合っている」
2002年W杯の代表入りが絶望視された際に発したコメント。
「サッカーをプレイできるなら、寿命が縮んだっていい」
「忘れないで欲しい。君達の足元には永遠にサッカーボールがあることを…」
「自らを愛してくれたファンの前でPKを蹴ることはできない」
フィオレンティーナ相手にPKを与えられた際の心情に触れて。
「僕の知っているドーピングはただ1つ、努力だ」
「3つの地味なゴールを決めるより、1つの華麗なゴールを決めるほうがいい。それがファンタジスタだ」
他者からの言葉
「94年米国W杯で僕らを決勝まで連れて行ってくれたのはロビーだった。彼はフットボールそのものさ」 アレッサンドロ・コスタクルタ
「彼はコンコルドみたいなものさ。ただ自由に飛ばせてあげればいいんだ」 ロナウド
「彼は生まれながらの優雅さを持っている」 パベル・ネドベド
「偉大なフットボーラーのリストにバッジョを加えるつもりはないよ、何故なら彼は別の惑星からやって来た宇宙人だから」 エンリコ・キエーザ
「デル・ピエロがピントリッキオ(ルネサンス期の画家、ラファエロの兄弟子)ならバッジョはラファエロ」 ジャンニ・アニェッリ
「10番というより、9.5番」 ミシェル・プラティニ
バッジョが9番(ストライカー)と10番(プレイメーカー、司令塔)両方の役割をこなせる選手という意味。
「今まで一緒にプレーした選手の中で最高のプレーヤー」 ジョゼップ・グアルディオラ
「確かに、私の元には沢山のクラブからオファーが届いた、ビッグクラブからも多く。けれども、このオファーより望むものはなかった。バッジョとプレーできる、それだけでどのクラブでプレーするよりも意義のあることだと私は思う」
「彼のようなフットボーラーと出会うには、少なくともあと20年はかかる」 ガブリエル・バティストゥータ
「それでも貴方は偉大だ」 クラウディオ・タファレル
1994年アメリカW杯の決勝のPK戦でPKを外したバッジョに対してかけた言葉。
「世界でイタリアだけが唯一、彼をNo.1だと認めなかった」 ジネディーヌ・ジダン
「彼はフィールドの中で出来ない事など何もない」 ジーコ
「私が現役のとき、悪夢のような選手が3人いた。マラドーナ、ファン・バステン、そしてバッジョ」 ジュゼッペ・ベルゴミ
「私はロベルトをピッチに送り出すとき一つだけ指示をする。『90分間で一度だけでもいいから君らしいプレイをしてくれ』とね。それが我々に歓喜をもたらすことを私は知っているから」 カルロ・マッツォーネ
「僕がイタリアに来てから、いつもバッジョとサッカーをすることを夢見ていた」 イバン・サモラーノ
「将来引退したら、皆に自慢するのさ。僕はバッジョとプレーしていたとね」 スティーヴン・アッピアー
「彼は超一流のフットボーラーである以上の人物だ。フットボールを愛する人たちにとって、彼は『直らない癖』のようなものだ。」フランコ・バレージ
「彼のフットボーラーとしての偉大さを知らない人はいないが、ひとりの人間として見たときの彼は、さらに魅力的だ。」ジョージ・ウェア
「生まれながらのファンタジスタにして最後の本物のファンタジスタよ、あなたは永遠に私達の中で輝き続けるであろう」
バッジョの引退試合でファンが掲げたフラッグ。
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【2010/11/10 01:09 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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