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【2024/11/28 08:41 】 |
石橋湛山
├─≠ョ─ヵラス ジャーナリスト
├─≠ョ─ヵラス









概要 [編集]

戦前から一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱えて、日本の敗戦後は日中米ソ平和同盟を主張して政界で活躍する。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣する。幼名は、省三(せいぞう)[1]。実父は身延山久遠寺第81世法主杉田日布。早稲田大学から名誉博士(Doctor of Laws)を贈られている。
生涯 [編集]

生い立ち [編集]
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれる。実父の湛誓は、当時東京大教院(現・立正大学の前身)の助教補(助手→助教)を務めていた。母・きんは、江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女である。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた。故あって母方の姓である石橋を名乗った[2]。
学生時代 [編集]
1885年(明治18年)に父親の湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡富士川町)に在る昌福寺の住職へ転じる為に、母親のきんと共に甲府市稲門へと転居する。1889年(明治22年)に、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居する事になり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校する。
1894年(明治27年)に父親の湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じる事になり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村→若草町、現・南アルプス市)に在る長遠寺の住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)に預けられる。以来実質的な親子の関係は絶たれて、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。
中学生時代でのかつて札幌農学校(現・北海道大学の前身)第一期生としてクラーク博士の薫陶を受けている大島正健校長との出会いは、湛山の人生観に大きな影響を与えており晩年に至る迄湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。
1902年(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、“湛山”と改名している[3]。 翌月に、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験の為に上京。その際に、正則英語学校[4]に通っている。
だが同年7月の試験は、不合格であった。翌年に再度受験するが又もや失敗して、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して9月に入学する。こうして、東京での下宿生活が始まっている[5]。
ジャーナリスト時代 [編集]
早稲田大学を卒業して、更に一年間研究科で勉強する。1908年(明治41年)12月に、 島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は東京毎日新聞を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社する。
兵役を経て東洋経済新報社に入社する。大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。又三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張する等(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。 1924年12月に第五代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。24年から36年まで鎌倉町議会議員を務める。
部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては新平価での金本位制復帰を主張して、旧平価での復帰や財界整理を主張する勝田貞次や堀江帰一逹や大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。行政面では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張する。
日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は署名記事を書く事が困難だった多くのリベラリスト(清沢洌等)にも匿名での論説の場を提供する。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいておりかつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていた為に、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが廃刊は免れる。
太平洋戦争では、次男和彦が召集され戦死している。
日本敗戦直後の1945年8月25日には、論説「更正日本の進路~前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。
10月13日『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張している。(『石橋湛山評論選集』東洋経済新報社、1990年、391-392頁)
政界へ [編集]
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、1946年(昭和21年)に自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第1次吉田茂内閣の大蔵大臣として入閣する。
大蔵大臣在任時にはデフレーションを制える為のインフレーションを進めて、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進する。
しかし戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げる様に、石橋は要求する。アメリカ合衆国は諸外国の評判を気にしたことと以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減すること。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われて、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令によりGHQによって公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山一郎派の幹部として打倒吉田に動いた。
1954年(昭和29年)の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。石橋は中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。1955年(昭和30年)11月、日中輸出入組合の結成を支援し中国との貿易が軌道に乗るようになる。
同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、石橋も合流入党した。
憲法と軍隊 [編集]
日本国憲法と軍隊の在り方を語った発言は、時代や状況によりいくつかの変遷がある。
1946年(昭和21年)3月に「憲法改正草案を評す」で、日本国憲法に関しては憲法九条に該当する草案第二章の戦争放棄を「最早日本は敗戦国でも、四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、予ねて日本に於て唱えられた真実の神国に転ずるものである。之れに勝った痛快事があろうか」と評価した。
だが1950年(昭和25年)から1953年(同28年)頃の論調には、自衛軍設置の主張や共産・社会主義との対決姿勢(後に自ら廃稿した「第三次世界大戦と世界国家」)が見受けられる。ただしこれが平和主義の否定といえるかについては、朝鮮戦争という危機状況や、自由・自民党の幹部としての公人の立場があった事は考慮に入れる必要はあるだろう。一方で私的に記した日記の中でも、1950年の記述で、「今日の世界に於て無軍備を誇るのは、病気に満ちた社会に於て医薬を排斥する或種の迷信」と非武装中立の主張を公的な発言以上に辛辣に評してもいる。
1953年の総選挙では、鳩山自由党の政策委員長として政策をまとめて「憲法を国情に適するように改正」「戦争否定の精神は国策として存置するが、戦争発生防止のため自衛軍を組織する」などを明記した。これは後年の「国としての軍備を持たず国際紛争を武力をもって解決していくのではないと、世界に宣言したことは…人類最高の宣言であると信じている。これが少し時勢に早かったというのであれば、修正の箇所だけあとに加える…『九条は現代の世代において論理通りにいかぬので、世界の国々が恒久平和の理想に燃え、同一精神、同一歩調のとれるまで、しばらく停止する』という具合」という主張(1966「中小企業」)にも合致する。
1957年(昭和32年)、首相に就任した年の新春特大号の東洋経済「石橋湛山大いに語る」では「国連に対して義務を負うということは、軍備ということも考えられる」とし、同時期の「プレスクラブ演説草稿」では「世界の実情から判断して、国の独立安全を保つのに必要な最小限の防衛力はこれを備える国際義務を日本国民は負うものであると信じます」としている。但し同稿の中で「人類を救わんとするならば、われわれは軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません」と、冷戦の平和解決と軍縮を主張した。
米ソ日中平和同盟を提唱してからは再び平和憲法維持を強調(「池田外交路線へ望む」)し、各国の軍備でなく国際警察軍によって平和を守る「世界連邦」実現への努力を説いている(「日本防衛論」)。湛山は朝鮮戦争の時期にも「破局的な第三次世界大戦がいやだというなら、そこ(各国の軍備全廃)まで行かなきゃダメだ」と駄目を押し「その場合は国を亡ぼしてもいいという覚悟をしなければとてもできない」(1952東洋経済新報「問われるままに」)と現実と理想のギャップを示しながら、熟慮・覚悟の伴わない理想論を戒めている。
湛山は後年「私の戦争反対論には、理屈の外に、実はこの(軍隊時代の)実弾演習の実感が強く影響していたと思う」「もし世の人が皆戦争をさように身近に考えたら、軽率な戦争論は跡を絶つに違いない」(「湛山回想」)と振り返っている。戦争を嫌悪した湛山だが、彼にとっての軍隊体験は、平和についての思索や公共生活の訓練として実のあるものだったようだ。
憲法は国民に義務を負わせるべきか、という議論に関しては、専制独裁に対抗するために主権を抑えようとした「十九世紀の憲法」からの脱却を説き、民主主義国においては国民が権利を持つ以上は義務を自覚しなければいけないと主張。「義務の規定に周密でない憲法は、真に民主的なものとはいえない」 と憲法における義務規定の充実を望んだ。
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【2010/11/02 23:09 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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