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総理総裁 [編集]
内閣総理大臣に就任した頃 外務大臣岸信介(最前列左)、大蔵大臣池田勇人(最前列右)ら石橋内閣の閣僚と石橋(最前列中央) 詳細は「石橋内閣」を参照 1956年(昭和31年)10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退。これを受けてアメリカ追従を主張する岸信介が自民党総裁選に立候補、これに対し石橋は社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ。1回目の投票では岸が1位であったが、決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかしながら前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り更に石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ足並みが乱れ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的にほぼ全ての閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足している(一人内閣)。親中派でもある石橋政権の樹立によって日本を反共の砦としたいアメリカのアイゼンハワー大統領は岸を望んでいたために狼狽したという。岸派より主張された「党内融和の為に決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、石橋内閣成立の立役者だった石井の副総理が無くなり、副総理格は岸が就任した。 内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れる。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると石橋は「政治的良心に従う」と潔く退陣した。予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である石橋首相は病気療養を理由に自ら国会に出席[6]して答弁できない状況の中での辞任表明には、野党でさえも好意的であり[7]、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたいもの」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王、羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸が任命された。 石橋はかつて『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃されて帝国議会への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して退陣を勧告する社説を書いたことがあった。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのである。 退陣後 [編集] 幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。 1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中華人民共和国を訪問した。政府の一員ではない石橋は訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処はつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談を実現させた。冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張。この主張はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。 その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど自民党内ハト派の重鎮として活躍したが1963年の総選挙で落選し、そのまま政界を引退した。 その他の活動 [編集] 1952年(昭和27年)12月から1968年(同43年)まで立正大学の学長を務めている。 思想・評論 [編集] 明治天皇と明治時代を記念した明治神宮建設計画に際して。 東京のどこかに一地を相して明治神宮を建つるなどということは実に愚な極みである。こんなことは、断じて先帝陛下(明治天皇)の御意志にもかなったことでないのみならず、また決して永遠に、先帝陛下を記念しまつる所以でもない。真に、先帝陛下を記念しまつらんと欲すれば、まず何よりも先帝の残された事業(注:憲政や産業、民の福利)を完成するということを考えねばならぬ。しかして、もし何らか形に現われた記念物を作らんと欲するならば、「明治賞金」の設定に越して適当なものはない。 (注:ノーベル賞はアルフレッド・ノーベルがその資産を世界文明のために賞金として遺したことにより、永遠に世界の人心に記念された。世界の人心を新たにし、その平和、文明に貢献するために、「明治賞金」こそ先帝陛下の御意志と最も合致する。) – 大正元年(1912年)『東洋時論』 第一次大戦参戦(ドイツへの開戦)と対支21ケ条要求について 吾輩は我が政府当局ならびに国民の外交に処する態度行動を見て憂慮に堪えないものがある。その一は、露骨なる領土侵略政策の敢行、その二は、軽薄なる挙国一致論である。この二者は、世界を挙げて我が敵となすものであって、その結果は、帝国百年の禍根をのこすものといわねばならぬ。~英国がドイツに向かって戦を宣するや、我が国民は一斉に起って論じて曰く、ドイツが青島に拠るは東洋の禍根である。日英同盟の義によってドイツを駆逐すべし、南洋の独領を奪取すべし、帝国の版図を拡げ大を成す、この時にありと。当時吾輩はその不可を切言したけれども、朝野を挙げて吾輩の説に耳を仮すものなく、ついにドイツと開戦の不幸をとなり、幾千の人命を殺傷した上に、これらの領土を維持するために相当大なる陸海軍の拡張が必要のみならず、独米の大反感を招けるは勿論、あるいは日英同盟さえ継続し得ぬ破目に陥りはせぬかを危ぶまれる。実に対独開戦は最近における我が外交第一着のそして取り返しのつかぬ大失策であって、しかしてこれ一に、考えざる領土侵略政策と、軽薄なる挙国一致論の生産物といわねばならぬ。 対支談判は、ドイツと開戦して青島を取ったことから糸を引いて出た失策ではあるが、その我が帝国にのこす禍根に至っては一層重大である。我が要求が多く貫徹すればするほど、世人はこれを大成功として祝杯を挙げるだろうが、吾輩は全く所見を異にして、禍根のいよいよ重大を恐るるものである。~このたびの事件で、我が国が支那およびドイツの深恨を買えるは勿論、米国にも不快を起こさせたは争えぬ事実である。かつて世界が日本の手を以て、ロシアの頭を叩かせたように、これらの諸国は日英同盟の破棄を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、日本の立場を転覆せしむるか、それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。その場合は、今回得た物の喪失だけでは到底済まず、一切の獲物を元も子もなく、取り上げられるであろう。これ吾輩の対支外交を以て、帝国百年の禍根をのこすものとして、痛憂おく能わざる所以である。 PR |
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