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【2024/11/28 08:26 】 |
ウルトラセブン
├─≠ョ─ヵラス 妻は元女優のサエコ。弟が2人おり末弟は俳優のKENTA。

├─≠ョ─ヵラス 父が枕元に野球とバスケットとサッカーのボールを並べる

├─≠ョ─ヵラス 最初に手に取ったのが野球のボールだった

├─≠ョ─ヵラス 父はサッカー選手であった

├─≠ョ─ヵラス サッカーのボールも蹴って渡したがそれも投げた

├─≠ョ─ヵラス 小学校2年生から本格的に野球を始め

├─≠ョ─ヵラス 50以上の高校からスカウトがあった

├─≠ョ─ヵラス 環境面等を理由に東北高等学校に入学する

├─≠ョ─ヵラス 甲子園では既に女性ファンの注目を集めていた

├─≠ョ─ヵラス 1年生秋からエースに就き

├─≠ョ─ヵラス 195cmの長身から繰り出す速球

├─≠ョ─ヵラス 高校生No.1ピッチャーとの呼び声もあった

├─≠ョ─ヵラス 高野連より厳重注意処分を受けた

├─≠ョ─ヵラス 日本ハムがダルビッシュを単独1位指名

├─≠ョ─ヵラス 2004年ドラフト指名選手の中で最後に仮契約を結んだ

├─≠ョ─ヵラス 春季キャンプは二軍スタートとなった

├─≠ョ─ヵラス 社会貢献活動を命じる処分を言い渡した

├─≠ョ─ヵラス 本人を停学処分とした

├─≠ョ─ヵラス イースタンで初登板しその後完封勝利も記録

├─≠ョ─ヵラス それ以降先発ローテーションに定着

├─≠ョ─ヵラス 年俸は倍増の3000万円で一発サインした

├─≠ョ─ヵラス 開幕当初は不振であった

├─≠ョ─ヵラス 自身公式戦10連勝を記録

├─≠ョ─ヵラス 7回1失点の好投でチームを勝利に導いた

├─≠ョ─ヵラス 11奪三振1失点完投で勝利

├─≠ョ─ヵラス この活躍により日本シリーズ優秀選手賞を受賞した

├─≠ョ─ヵラス チームの新エースへと成長した

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュ登板時の捕手はほぼ鶴岡で固定されていた

├─≠ョ─ヵラス 初の開幕投手を務めた

├─≠ョ─ヵラス 女優・サエコとの結婚を報告した

├─≠ョ─ヵラス 最多奪三振、ゴールデングラブ賞・ベストナインのタイトルを獲得

├─≠ョ─ヵラス パ・リーグシーズンMVPに選出

├─≠ョ─ヵラス 北京オリンピック代表のエースにも指名された

├─≠ョ─ヵラス 2年連続で中日ドラゴンズと対決した

├─≠ョ─ヵラス 川上憲伸との投げ合いを制し勝利投手となった

├─≠ョ─ヵラス 史上最年少の2億円プレーヤーとなった

├─≠ョ─ヵラス 岩隈久志とタイトル争いを繰り広げた

├─≠ョ─ヵラス 初戦キューバ戦のマウンドを託された

├─≠ョ─ヵラス 千葉ロッテとの激しい3位争いを制する原動力になった

├─≠ョ─ヵラス この年は主要タイトルこそ獲得できなかった

├─≠ョ─ヵラス 防御率も2年連続の1点台を記録した

├─≠ョ─ヵラス 日本シリーズを含むポストシーズン史上最多となった

├─≠ョ─ヵラス 西武打線の内角をえぐるツーシームを多投

├─≠ョ─ヵラス プロ5年目としては球界史上最高額となった

├─≠ョ─ヵラス 先発3本柱として原監督から指名される

├─≠ョ─ヵラス シーズンでは3年連続開幕投手として岩隈との投げ合った

├─≠ョ─ヵラス 初めて岩隈に敗れてしまった

├─≠ョ─ヵラス 校出の選手としては松坂の111試合をしのぐ最速記録であった

├─≠ョ─ヵラス 肩の張りが出やすい状態であった

├─≠ョ─ヵラス 怪我の箇所に負担がかからぬ

├─≠ョ─ヵラス キャッチボールのような投球フォームであった

├─≠ョ─ヵラス 今の状態では出来過ぎ以上

├─≠ョ─ヵラス 一世一代の投球ができた

├─≠ョ─ヵラス 右手人さし指を疲労骨折していた事が判明した

├─≠ョ─ヵラス 巨人打線を抑えて勝ち投手となった

├─≠ョ─ヵラス ベストナインとMVPを受賞した

├─≠ョ─ヵラス 史上最年少の3億円プレーヤーとなった

├─≠ョ─ヵラス 自ら培ってきた技術を日本球界に還元したい

├─≠ョ─ヵラス 5試合連続で二桁奪三振

├─≠ョ─ヵラス シーズンを通して安定したピッチングをした

├─≠ョ─ヵラス 投球回数200イニングを達成した

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュはプロ野球で初めて同球種を投げた投手である

├─≠ョ─ヵラス オールスターゲームでは打者の手元で浮き上がるカットボールを投げた

├─≠ョ─ヵラス 千葉マリンスタジアムでは制球に苦しむことが多い

├─≠ョ─ヵラス 独自の調整法を採用している

├─≠ョ─ヵラス 素行の悪さ・プロ意識の低さも目立った

├─≠ョ─ヵラス 事からトレーニング内容まで自己管理している

├─≠ョ─ヵラス 球界関係者が実力的に現役最高の投手と認めている

├─≠ョ─ヵラス 総合力でナンバーワンの投手

├─≠ョ─ヵラス 「ダルビッシュ軍団」を結成している

├─≠ョ─ヵラス 涌井と練習の時やプライベートの時もいつも一緒に行動していた

├─≠ョ─ヵラス 元大阪のホテルで行われた「励ます会」に出席

├─≠ョ─ヵラス マイクロバス購入のため200万円を寄付した

├─≠ョ─ヵラス 開発途上国への水の支援を行う

├─≠ョ─ヵラス 「ダルビッシュ有 水基金」を設立

├─≠ョ─ヵラス 10万円を日本水フォーラムに寄付している

├─≠ョ─ヵラス 故郷への恩返しのため、グラウンドの建設費用を出したい

├─≠ョ─ヵラス 5月下旬に300万円の義援金を送った

├─≠ョ─ヵラス 2010年度ゴールデンスピリット賞が贈られることが決定した

├─≠ョ─ヵラス 公式戦12連勝:史上5人目

├─≠ョ─ヵラス 高卒新人の初登板初勝利:史上12人目

├─≠ョ─ヵラス 高卒新人の完封勝利:史上14人目

├─≠ョ─ヵラス 20歳以下の日本シリーズ勝利:史上5人目

├─≠ョ─ヵラス 日本シリーズ1試合13奪三振:史上3人目

├─≠ョ─ヵラス 同一日本シリーズ24奪三振:歴代2位

├─≠ョ─ヵラス 公式戦開幕5戦連続2桁奪三振:史上初

├─≠ョ─ヵラス 日ハムの若きエース ダルビッシュ 進化の軌跡

├─≠ョ─ヵラス ユニホーム忘れた!「ヤギビッシュ」で11連勝

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュ、結婚を語ったヒーローインタビューは狙い通り

├─≠ョ─ヵラス 日本のエースです!ダル2戦連続完投11勝

├─≠ョ─ヵラス 周囲に打ち明けず…日本ハム・ダル、骨折していた!

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュ丸刈りで球場入り
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【2010/11/07 16:33 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り274
エピソード [編集]

石橋が首相を退陣した時にその潔さを国民は高く評価されることが多いが、弁護士の正木ひろしは私的な感情で「公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判している。そもそも、自民党総裁選で1位優位であった岸信介に対抗する形で2位候補だった石橋湛山と石井光次郎と2位・3位連合を組むことで1位当選を果たすことで岸総理を阻止するという性格があって、石橋総理総裁が誕生した経緯があった。しかし、冬場に自身の体調を考慮しない遊説を行ったために風邪を引いて寝込んだ後に絶対安静が必要との医師の診断を受けた石橋は、連合相手であるが閣内に入れていなかった石井を差し置く形で、閣内に留めておくために副総理格外相として迎えられていた岸信介をただちに総理臨時代理として副総理格の岸に総理総裁を禅譲をして、岸総理総裁が誕生した。予算審議が目前であるにも関わらず自身の体調不考慮が原因で寝込んだことで重たい責任がある首相として予算審議が最初となる国会で一度も演説や答弁を行うことができないまま首相退陣するという愚行を国民に晒した挙句、次期総理総裁を当初の連合相手の石井ではなく総裁選のライバルであった岸に渡し、総裁選時の岸総理阻止という2位3位連合の理念をすぐに反故にしたことになる。
その後、東洋経済新報社で石橋の「全集」が作成される時に、編集者は全集に入れる月報の執筆を正木に依頼した。かつて石橋の部下でもあったその編集者は、石橋への賛美一色のコラムを集めたのでは、一方の意見に偏らない言論の必要性を唱えて来た石橋の信念に反すると考えたのである。正木が書いた石橋への批判はそのまま掲載される事になった。
略年譜 [編集]

1884年(明治17年)
9月25日 - 東京市麻布区芝二本榎(現在の港区)に生まれる。
1885年(明治18年)
3月 - 父親が山梨県南巨摩郡増穂村(現在の富士川町)に在る昌福寺の住職に転じた事に伴い、母親と共に甲府市稲門に転居。
1894年(明治27年)
9月 - 父親が豊田村(現在の静岡市駿河区)に在る青龍山本覚寺住職就任の為に、山梨県中巨摩郡鏡中条村(若草村→若草町を経て、現在の南アルプス市)に在る長遠寺の住職を務めている望月日謙に預けられる。
1895年(明治28年)
4月 - 山梨県立尋常中学校に入学。
1902年(明治35年)
3月 - 省三を湛山と改名する。山梨県立山梨県第一中学校を卒業。
1903年(明治36年)
9月 - 早稲田大学高等予科に編入。
1904年(明治37年)
9月 - 早稲田大学大学部文学科(現在の文学部)哲学科へ進級(当時の學校長は、鳩山和夫)。
1907年(明治40年)
7月 - 早稲田大学大学部文学科を首席で卒業(英文科を含む)して、特待研究生として宗教研究科へ進級。
1908年(明治41年)
7月 - 宗教研究科を修了して、島村抱月の紹介で毎日新聞社(東京毎日新聞を出している方)に入社。
1909年(明治42年)
8月 - 毎日新聞社を退社。
12月 - 東京麻布の歩兵第3連隊に入営。
1910年(明治43年)
11月 - 軍曹に昇進して除隊。
1911年(明治44年)
1月 - 東洋経済新報社に入社して、『東洋時論』の編集を担当する。
9月 - 見習い士官として、3ヶ月の召集を受ける。
1912年(大正元年)
11月 - 福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)生まれの岩井うめと結婚。岩井家は、旧藩時代、米沢藩士として家老職を務めた名門だった。
1913年(大正2年)
- 陸軍の、歩兵少尉となる。
1916年(大正5年)
11月 - 東洋経済新報社の合名社員に、選ばれる。
1924年(大正13年)
9月 - 鎌倉町町会議員に当選(~1928年8月)。
12月 - 東洋経済新報社第五代主幹に就任。
1925年(大正14年)
1月 - 東洋経済新報社代表取締役・専務取締役に就任。
1935年(昭和10年)
9月 - 内閣調査局委員に任ぜられる。
1940年(昭和15年)
11月 - 東洋経済研究所を設立して、所長並びに理事に就任。
1941年(昭和16年)
2月 - 東洋経済新報社の社長制新設に伴い、代表取締役社長に就任。
1945年(昭和20年)
3月 - 東京大空襲で、芝の居宅が焼失。
8月 - 連合国軍に対して日本が、アジア・太平洋戦争に敗戦する。
1946年(昭和21年)
3月 - 山川均提唱の民主人民連盟世話人会に参加。
4月 - 戦後初の衆議院議員総選挙に立候補して落選。
5月 - 第1次吉田内閣の大蔵大臣に就任。
1947年(昭和22年)
4月 - 静岡県第2区より総選挙に立候補して初当選。
5月 - GHQにより公職追放となる。
1951年(昭和26年)
6月 - 公職追放が解除されて、自由党に復党。
1952年(昭和27年)
12月 - 立正大学学長に就任。
1953年(昭和28年)
3月 - 政策審議会会長に就任。
1954年(昭和29年)
11月 - 岸信介と共に、自由党より除名処分を受ける。
12月 - 第1次鳩山内閣の通商産業大臣に就任する。
1956年(昭和31年)
12月 - 自由民主党第2代総裁に当選して、その後の国会指名により内閣総理大臣に就任する。
1957年(昭和32年)
1月 - 脳梗塞を発症(公式発表は、老人性急性肺炎)。
2月 - 自由民主党総裁と総理大臣を辞任。
1959年(昭和34年)
9月 - 中華人民共和国を訪問して、周恩来と会談。
1963年(昭和38年)
9月 - 日本工業展覧会総裁として中国を訪問。
11月 - 第30回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退。
1964年(昭和39年)
9月 - ソビエト連邦を訪問。
1968年(昭和43年)
3月 - 立正大学学長を退任。
1973年(昭和48年)
4月25日 - 88歳で死去。戒名は、謙徳院殿慈光湛山日省大居士。
【2010/11/02 23:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り273
総理総裁 [編集]


内閣総理大臣に就任した頃


外務大臣岸信介(最前列左)、大蔵大臣池田勇人(最前列右)ら石橋内閣の閣僚と石橋(最前列中央)
詳細は「石橋内閣」を参照
1956年(昭和31年)10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退。これを受けてアメリカ追従を主張する岸信介が自民党総裁選に立候補、これに対し石橋は社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ。1回目の投票では岸が1位であったが、決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかしながら前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り更に石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ足並みが乱れ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的にほぼ全ての閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足している(一人内閣)。親中派でもある石橋政権の樹立によって日本を反共の砦としたいアメリカのアイゼンハワー大統領は岸を望んでいたために狼狽したという。岸派より主張された「党内融和の為に決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、石橋内閣成立の立役者だった石井の副総理が無くなり、副総理格は岸が就任した。
内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れる。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると石橋は「政治的良心に従う」と潔く退陣した。予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である石橋首相は病気療養を理由に自ら国会に出席[6]して答弁できない状況の中での辞任表明には、野党でさえも好意的であり[7]、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたいもの」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王、羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸が任命された。
石橋はかつて『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃されて帝国議会への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して退陣を勧告する社説を書いたことがあった。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのである。
退陣後 [編集]
幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。
1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中華人民共和国を訪問した。政府の一員ではない石橋は訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処はつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談を実現させた。冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張。この主張はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。
その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど自民党内ハト派の重鎮として活躍したが1963年の総選挙で落選し、そのまま政界を引退した。
その他の活動 [編集]
1952年(昭和27年)12月から1968年(同43年)まで立正大学の学長を務めている。
思想・評論 [編集]
明治天皇と明治時代を記念した明治神宮建設計画に際して。
東京のどこかに一地を相して明治神宮を建つるなどということは実に愚な極みである。こんなことは、断じて先帝陛下(明治天皇)の御意志にもかなったことでないのみならず、また決して永遠に、先帝陛下を記念しまつる所以でもない。真に、先帝陛下を記念しまつらんと欲すれば、まず何よりも先帝の残された事業(注:憲政や産業、民の福利)を完成するということを考えねばならぬ。しかして、もし何らか形に現われた記念物を作らんと欲するならば、「明治賞金」の設定に越して適当なものはない。

(注:ノーベル賞はアルフレッド・ノーベルがその資産を世界文明のために賞金として遺したことにより、永遠に世界の人心に記念された。世界の人心を新たにし、その平和、文明に貢献するために、「明治賞金」こそ先帝陛下の御意志と最も合致する。)

– 大正元年(1912年)『東洋時論』

第一次大戦参戦(ドイツへの開戦)と対支21ケ条要求について
吾輩は我が政府当局ならびに国民の外交に処する態度行動を見て憂慮に堪えないものがある。その一は、露骨なる領土侵略政策の敢行、その二は、軽薄なる挙国一致論である。この二者は、世界を挙げて我が敵となすものであって、その結果は、帝国百年の禍根をのこすものといわねばならぬ。~英国がドイツに向かって戦を宣するや、我が国民は一斉に起って論じて曰く、ドイツが青島に拠るは東洋の禍根である。日英同盟の義によってドイツを駆逐すべし、南洋の独領を奪取すべし、帝国の版図を拡げ大を成す、この時にありと。当時吾輩はその不可を切言したけれども、朝野を挙げて吾輩の説に耳を仮すものなく、ついにドイツと開戦の不幸をとなり、幾千の人命を殺傷した上に、これらの領土を維持するために相当大なる陸海軍の拡張が必要のみならず、独米の大反感を招けるは勿論、あるいは日英同盟さえ継続し得ぬ破目に陥りはせぬかを危ぶまれる。実に対独開戦は最近における我が外交第一着のそして取り返しのつかぬ大失策であって、しかしてこれ一に、考えざる領土侵略政策と、軽薄なる挙国一致論の生産物といわねばならぬ。

対支談判は、ドイツと開戦して青島を取ったことから糸を引いて出た失策ではあるが、その我が帝国にのこす禍根に至っては一層重大である。我が要求が多く貫徹すればするほど、世人はこれを大成功として祝杯を挙げるだろうが、吾輩は全く所見を異にして、禍根のいよいよ重大を恐るるものである。~このたびの事件で、我が国が支那およびドイツの深恨を買えるは勿論、米国にも不快を起こさせたは争えぬ事実である。かつて世界が日本の手を以て、ロシアの頭を叩かせたように、これらの諸国は日英同盟の破棄を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、日本の立場を転覆せしむるか、それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。その場合は、今回得た物の喪失だけでは到底済まず、一切の獲物を元も子もなく、取り上げられるであろう。これ吾輩の対支外交を以て、帝国百年の禍根をのこすものとして、痛憂おく能わざる所以である。
【2010/11/02 23:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
石橋湛山
├─≠ョ─ヵラス ジャーナリスト
├─≠ョ─ヵラス









概要 [編集]

戦前から一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱えて、日本の敗戦後は日中米ソ平和同盟を主張して政界で活躍する。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣する。幼名は、省三(せいぞう)[1]。実父は身延山久遠寺第81世法主杉田日布。早稲田大学から名誉博士(Doctor of Laws)を贈られている。
生涯 [編集]

生い立ち [編集]
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれる。実父の湛誓は、当時東京大教院(現・立正大学の前身)の助教補(助手→助教)を務めていた。母・きんは、江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女である。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた。故あって母方の姓である石橋を名乗った[2]。
学生時代 [編集]
1885年(明治18年)に父親の湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡富士川町)に在る昌福寺の住職へ転じる為に、母親のきんと共に甲府市稲門へと転居する。1889年(明治22年)に、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居する事になり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校する。
1894年(明治27年)に父親の湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じる事になり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村→若草町、現・南アルプス市)に在る長遠寺の住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)に預けられる。以来実質的な親子の関係は絶たれて、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。
中学生時代でのかつて札幌農学校(現・北海道大学の前身)第一期生としてクラーク博士の薫陶を受けている大島正健校長との出会いは、湛山の人生観に大きな影響を与えており晩年に至る迄湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。
1902年(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、“湛山”と改名している[3]。 翌月に、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験の為に上京。その際に、正則英語学校[4]に通っている。
だが同年7月の試験は、不合格であった。翌年に再度受験するが又もや失敗して、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して9月に入学する。こうして、東京での下宿生活が始まっている[5]。
ジャーナリスト時代 [編集]
早稲田大学を卒業して、更に一年間研究科で勉強する。1908年(明治41年)12月に、 島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は東京毎日新聞を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社する。
兵役を経て東洋経済新報社に入社する。大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。又三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張する等(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。 1924年12月に第五代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。24年から36年まで鎌倉町議会議員を務める。
部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては新平価での金本位制復帰を主張して、旧平価での復帰や財界整理を主張する勝田貞次や堀江帰一逹や大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。行政面では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張する。
日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は署名記事を書く事が困難だった多くのリベラリスト(清沢洌等)にも匿名での論説の場を提供する。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいておりかつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていた為に、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが廃刊は免れる。
太平洋戦争では、次男和彦が召集され戦死している。
日本敗戦直後の1945年8月25日には、論説「更正日本の進路~前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。
10月13日『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張している。(『石橋湛山評論選集』東洋経済新報社、1990年、391-392頁)
政界へ [編集]
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、1946年(昭和21年)に自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第1次吉田茂内閣の大蔵大臣として入閣する。
大蔵大臣在任時にはデフレーションを制える為のインフレーションを進めて、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進する。
しかし戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げる様に、石橋は要求する。アメリカ合衆国は諸外国の評判を気にしたことと以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減すること。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われて、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令によりGHQによって公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山一郎派の幹部として打倒吉田に動いた。
1954年(昭和29年)の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。石橋は中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。1955年(昭和30年)11月、日中輸出入組合の結成を支援し中国との貿易が軌道に乗るようになる。
同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、石橋も合流入党した。
憲法と軍隊 [編集]
日本国憲法と軍隊の在り方を語った発言は、時代や状況によりいくつかの変遷がある。
1946年(昭和21年)3月に「憲法改正草案を評す」で、日本国憲法に関しては憲法九条に該当する草案第二章の戦争放棄を「最早日本は敗戦国でも、四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、予ねて日本に於て唱えられた真実の神国に転ずるものである。之れに勝った痛快事があろうか」と評価した。
だが1950年(昭和25年)から1953年(同28年)頃の論調には、自衛軍設置の主張や共産・社会主義との対決姿勢(後に自ら廃稿した「第三次世界大戦と世界国家」)が見受けられる。ただしこれが平和主義の否定といえるかについては、朝鮮戦争という危機状況や、自由・自民党の幹部としての公人の立場があった事は考慮に入れる必要はあるだろう。一方で私的に記した日記の中でも、1950年の記述で、「今日の世界に於て無軍備を誇るのは、病気に満ちた社会に於て医薬を排斥する或種の迷信」と非武装中立の主張を公的な発言以上に辛辣に評してもいる。
1953年の総選挙では、鳩山自由党の政策委員長として政策をまとめて「憲法を国情に適するように改正」「戦争否定の精神は国策として存置するが、戦争発生防止のため自衛軍を組織する」などを明記した。これは後年の「国としての軍備を持たず国際紛争を武力をもって解決していくのではないと、世界に宣言したことは…人類最高の宣言であると信じている。これが少し時勢に早かったというのであれば、修正の箇所だけあとに加える…『九条は現代の世代において論理通りにいかぬので、世界の国々が恒久平和の理想に燃え、同一精神、同一歩調のとれるまで、しばらく停止する』という具合」という主張(1966「中小企業」)にも合致する。
1957年(昭和32年)、首相に就任した年の新春特大号の東洋経済「石橋湛山大いに語る」では「国連に対して義務を負うということは、軍備ということも考えられる」とし、同時期の「プレスクラブ演説草稿」では「世界の実情から判断して、国の独立安全を保つのに必要な最小限の防衛力はこれを備える国際義務を日本国民は負うものであると信じます」としている。但し同稿の中で「人類を救わんとするならば、われわれは軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません」と、冷戦の平和解決と軍縮を主張した。
米ソ日中平和同盟を提唱してからは再び平和憲法維持を強調(「池田外交路線へ望む」)し、各国の軍備でなく国際警察軍によって平和を守る「世界連邦」実現への努力を説いている(「日本防衛論」)。湛山は朝鮮戦争の時期にも「破局的な第三次世界大戦がいやだというなら、そこ(各国の軍備全廃)まで行かなきゃダメだ」と駄目を押し「その場合は国を亡ぼしてもいいという覚悟をしなければとてもできない」(1952東洋経済新報「問われるままに」)と現実と理想のギャップを示しながら、熟慮・覚悟の伴わない理想論を戒めている。
湛山は後年「私の戦争反対論には、理屈の外に、実はこの(軍隊時代の)実弾演習の実感が強く影響していたと思う」「もし世の人が皆戦争をさように身近に考えたら、軽率な戦争論は跡を絶つに違いない」(「湛山回想」)と振り返っている。戦争を嫌悪した湛山だが、彼にとっての軍隊体験は、平和についての思索や公共生活の訓練として実のあるものだったようだ。
憲法は国民に義務を負わせるべきか、という議論に関しては、専制独裁に対抗するために主権を抑えようとした「十九世紀の憲法」からの脱却を説き、民主主義国においては国民が権利を持つ以上は義務を自覚しなければいけないと主張。「義務の規定に周密でない憲法は、真に民主的なものとはいえない」 と憲法における義務規定の充実を望んだ。
【2010/11/02 23:09 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
熊62
リベラルな論調
一般的にタイムズはリベラルな論調を持つとされる。これは政治記事と社会記事において顕著である。もっとも日本と違って、アメリカでは大統領選挙などで新聞が特定候補の支持を鮮明にするなど、政治色を強く打ち出すことは許容されている。保守系テレビ局のFOXテレビのFOXニュースから近年、一貫して攻撃を受けている。
マサチューセッツ工科大学のリカルド・パグリシは2004年に " Being the New York Times: The Political Behaviour of a Newspaper " という論文を発表した。この中で彼は1946年から1994年の期間におけるタイムズ紙の取り上げた記事を調査し、タイムズが民主党支持であることを統計から立証している。例えば大統領選では優先的に民主党候補を取り上げ、対立する共和党候補については小さな記事で扱う、などである。
特集項目の中の芸術関連記事(主要項目を参照)における政治的コメントについてはジャーナリズムにおけるバイアスの典型であるとの指摘もある。例として、A・O・スコットの映画評論記事は時折保守派に対する皮肉が散見され、フランク・リッチ執筆のアート関連コラムでは頻繁に芸術とは関連性の薄い保守派攻撃がなされている。一方これらは筆者のユーモアであるとの意見も存在する。
タイムズの専属コラムニストにより執筆される Op-Eds については他の紙面に比べ独立性が高く政治的偏向も少ないとされる。しかしこのセクションについても政治的中立性が批判されることがある。
2008年時点におけるコラムニストの政治的スタンスは一般的に、モーリーン・ダウド、ポール・クルーグマン、ボブ・ハーバートが左派、ニコラス・クリストフが中道左派、トマス・フリードマンが中道右派、ディヴィッド・ブルックスとジョン・ティーニーが右派、ウィリアム・クリストル(ネオコンの始祖に数えられるアーヴィング・クリストルの息子)が強固な右派とされている。しかしこれらのコラムニストをアメリカの政治的スペクトラムで色分けすることは過度の単純化であるとの批判も存在し、実際、民主党は左派、共和党は右派とのされる中で、共和党ジョージ・W・ブッシュ政権への厳しい批評で知られるモーリーン・ダウドは、民主党ビル・クリントン大統領の弾劾裁判の記事でピューリッツァー賞を受けており、派閥ごとの立場をそれぞれのコラムニストが擁護しているとの意見は短絡的である。
【2010/11/01 02:53 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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